まなざし (哲学)
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まなざし、眼差し、あるいは視線 (フランス語: Regard、英語: Gaze) とは哲学、批判理論、美学、メディア研究、芸術批評、社会学、精神分析学などで、見ること、見られることを指す言葉であり、単に目で見るということのみならず、対象となるものをどのように認識するのかに関する特殊な哲学的意味合いをこめて用いられる[1]。見ることを人間関係における極めて重要な要素と見なし、他者を見ることによって主体と客体という関係が成立すると考える場合、ここで主体が客体に向ける目が「まなざし」と呼ばれる。もともとはフランス語のle regardの訳語で、英語ではgazeであるが、日本語の訳語は「まなざし」「眼差し」「視線」などが用いられ、一定していない[2]。ジョン・アーリとヨーナス・ラースンは「まなざしという概念で言いたいことは、モノ・コトを見るということは、実は習得された能力であって、純粋で無垢な目などはありえないということである[3]」とまとめている。
ジャン=ポール・サルトルが『存在と無』 第3部第1章で行った議論にはじまり、多数の実存主義者や現象学者がまなざしの概念を論じてきた。ミシェル・フーコーは『監獄の誕生』で、権力関係や矯正機構の中ではたらく力のあり方を明確にするため、まなざしについて詳しく議論を行った。ジャック・デリダも『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』で、動物と人間の関係を論じるにあたってまなざしについて論じている。男性のまなざしという概念はもともと、フェミニズム映画批評の理論家であるローラ・マルヴィが理論化したものであり、それ以来この理論は広告、職場、テレビゲームなどのさまざまな他のメディアや技術に応用されている。