ジョン・ステュアート (第3代ビュート伯)
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第3代ビュート伯爵ジョン・ステュアート(英語: John Stuart, 3rd Earl of Bute, KG PC, 英語発音: [ˈbyüt][1]、1713年5月25日 - 1792年3月10日)は、イギリスの政治家、貴族。
概要 生年月日, 出生地 ...
第3代ビュート伯爵 ジョン・ステュアート John Stuart, 3rd Earl of Bute | |
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ジョシュア・レノルズ画、1773年。 | |
生年月日 | 1713年5月25日 |
出生地 | グレートブリテン王国、スコットランド、エディンバラ、議会広場(英語版) |
没年月日 | (1792-03-10) 1792年3月10日(78歳没) |
死没地 | グレートブリテン王国、ロンドン、メイフェア |
出身校 | イートン・カレッジ |
所属政党 | トーリー党 |
称号 | 第3代ビュート伯爵、ガーター勲章勲爵士(KG)、枢密顧問官(PC) |
配偶者 | メアリー(旧姓ワートリー=モンタギュー) |
在任期間 | 1762年5月26日 - 1763年4月8日 |
国王 | ジョージ3世 |
内閣 | ビュート伯内閣 |
在任期間 | 1762年5月26日 - 1763年4月8日 |
内閣 | 第2次ニューカッスル公爵内閣 |
在任期間 | 1761年3月25日 - 1762年5月27日 |
貴族院議員 | |
選挙区 | スコットランド貴族代表議員 |
在任期間 |
1737年 - 1741年 1761年 - 1780年 |
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スコットランド貴族の家に生まれ、ジョージ3世が皇太子の頃にその家庭教師を務めていた。1760年のジョージ3世の即位後、国王の後押しで政界で急速に昇進し、1762年5月には首相に就任した。反政党政治的な「愛国王」の理念に則ってウォルポール以来の「ホイッグ党寡頭支配」を終焉させ、万年野党だったトーリー党からも閣僚登用を行った。彼の首相在任期に七年戦争の講和条約パリ条約が締結されている。しかし著しい不人気だったため、1763年4月に退陣した。以降もしばらくジョージ3世から助言を求められたが、1766年夏には完全に引退した。