スラヴャンスクの戦い
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スラヴャンスクの戦い(スラヴャンスクのたたかい、英語: Siege of Sloviansk、スラヴャンスク包囲戦)とは、2014年4月12日から同年7月5日までの間、ドネツィク州スラヴャンスクにおいて、ウクライナ軍と親ロシア派分離主義勢力との間で行われた戦闘である。
スラヴャンスクの戦い | |||||||
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ドンバス戦争中 | |||||||
2014年7月1日のウクライナ軍の攻撃(青)と7月4日の分離主義勢力の撤退(赤) | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
ウクライナ |
ドネツク人民共和国 ロシア (ウクライナ主張) | ||||||
指揮官 | |||||||
オレクサンドル・トゥルチノフ ペトロ・ポロシェンコ アーセン・アヴァコフ(英語版) セルヒイ・クルチツキー(英語版) †[2] ステパン・ポトラック(英語版) ドミトリー・ヤロシ マキシム・シャポバル(英語版) バレンティン・ナリバイチェンコ(英語版) |
ヴャチェスラフ・ポノマレフ(英語版) イーゴリ・ギルキン[4] アーセニー・パヴロフ(英語版)[5] アレクサンダー・ホダコフスキー(英語版) セルゲイ・フリコフ(英語版) † ("ロマシュカ(カモミールの意)")[6] アレクサンドル・モジェフ ("Babay(祖父)" or "ボギーマン")[7] | ||||||
部隊 | |||||||
ウクライナ保安庁 (SBU)
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戦力 | |||||||
人員15,000名以上 戦車160両 APC230両 砲迫ロケット150門以上 [12] ヘリコプター20機[13] その他航空機2機以上 |
人員800[14]–1,000名[15] APC6両 [16] | ||||||
被害者数 | |||||||
兵士51名死亡 SBU情報員2名死亡[17] SBU情報員3名捕虜[18] 警察署長1名捕虜[18] Mi-24ヘリ4機撃墜[19] Mi-8ヘリ2機撃墜[19][2] An-30 1機撃墜[19][20] Mi-24ヘリ3機損傷[19] Mi-8ヘリ2機損傷[19][21] An-30 1機損傷[19] |
34–54名死亡[22] 4名捕虜[23] 戦車1両以上 APC数両[24] | ||||||
民間人~20名死亡(4月13日-5月26日)[25] (5月27日-7月5日の死傷者不明) 民間人及び外国人の行方不明又は誘拐17名[18] ペンテコステ派教会信者4名が処刑 イタリアのフォトジャーナリスト1名とロシアの通訳者1人が死亡[26] |
最終的に町はウクライナ軍が奪回した。
スラヴャンスクの戦いはウクライナ軍と分離主義者の間で起こった最初の大規模な交戦であり、2014年の戦闘の先駆けとなるものであった。
2014年4月12日、2014年ウクライナ騒乱以後の ウクライナの親ロシア不安(英語版)として、カラシニコフ銃を装備し戦闘服を着た覆面の男たちがスラヴャンスク市庁舎を占拠した[27]。続いて、親ロシア派を主張するその男たちはドネツク人民共和国の旗を掲げ、市内の他の建物を占拠して防御施設を構築し始めた。ウクライナの第一次ヤツェニュク政権はこれに反応、最初の対テロ作戦地区(英語版)(ATO)を設定し、分離主義勢力に対して反攻を開始した。攻防戦は膠着状態となり暴力的な局地的衝突となった[28]。市内の緊張が高まる中、分離主義勢力はジャーナリスト等を捕らえる人質事件を起こした。4月18日、ウクライナ保安庁はスラヴャンスクはこの地域で最も激戦の地点であると発表した[29]。4月20日、右派セクターは、大統領代理オレクサンドル・トゥルチノフから、分離主義勢力が支配するテレビ塔の破壊工作を命じられた。これは最初の大きな戦闘となった[30][31]。6月までに市の人口の約40%が避難した[32]。7月5日、分離主義勢力がドネツク市に撤退後、ウクライナ当局はスラヴャンスクの統治を取り戻した[33]。