ニコライ・エジョフ
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ニコライ・イヴァーノヴィチ・エジョフ(ロシア語: Никола́й Ива́нович Ежо́в; IPA: [nʲɪkɐˈɫaj ɪˈvanəvʲɪt͡ɕ (j)ɪˈʐof];, ニカラーイ・イヴァーナヴィチ・エジョーフ、1895年5月1日 - 1940年2月4日)は、ソ連の政治家。ボリシェヴィキ全連邦共産党中央委員会党統制委員会委員長、ボリシェヴィキ全連邦共産党中央委員会組織局委員、ボリシェヴィキ全連邦共産党中央委員会正委員、ボリシェヴィキ全連邦共産党中央委員会政治局委員候補、ソ連共産党中央委員会書記局書記、ソ連内務人民委員、ソ連水運人民委員、国家保安総局長を歴任した。ヨシフ・スターリンによる指導のもと、1937年から1938年にかけて実行された大規模な抑圧である大粛清の主要な人物であり、内務人民委員部を指揮した。1937年は、ソ連におけるこの大規模な弾圧を象徴する年となり、これは「イェジョーフシナ」(ロシア語: Ежовщина, 「エジョフの時代」)と呼ばれた。1939年、エジョフは、「反ソ連のクーデターとテロリズムを準備し、外国と共謀して諜報活動に従事していた」容疑で裁判にかけられ、1940年2月に銃殺刑に処せられた[5][6]。 歴史家のオレグ・フリエヴニューク(ロシア語版)は、「スターリンの立場こそが、大粛清の激化に決定的な役割を果たした。1938年1月17日、スターリンは内務人民委員エジョフに対し、新たな指令を与えた...この指令は、大粛清を主導する組織において、スターリンが果たした決定的な役割と、スターリンによる命令の執行者としてのエジョフの従属的な立場を示す証拠の一つにすぎない。粛清と大規模な実行に関するすべての重要な決定を開始したのはスターリンであることを示す文書は数多く残っているのだ」と書いた[7]。
ニコライ・エジョフ | |
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Николай Ежов | |
ソビエト連邦内務人民委員[1] | |
任期 1936年9月26日 – 1938年11月24日 | |
人民委員会議議長 | ヴャチェスラーフ・モロトフ |
前任者 | ゲンリフ・ヤゴーダ |
後任者 | ラヴリェンチー・ベリヤ |
ソビエト連邦水運人民委員 | |
任期 1938年4月8日 – 1939年4月9日 | |
人民委員会議議長 | ヴャチェスラーフ・モロトフ |
前任者 | ニコライ・パホモフ |
ボリシェヴィキ全連邦共産党中央委員会党統制委員会委員長(ロシア語版) | |
任期 1935年 – 1939年 | |
前任者 | ラーザリ・カガノーヴィチ |
後任者 | アンドレイ・アンドレーイェフ |
第17回ボリシェヴィキ全連邦共産党大会中央委員会正委員 | |
任期 1934年2月10日 – 1939年3月10日 | |
第17回ボリシェヴィキ全連邦共産党大会中央委員会政治局委員候補[2] | |
任期 1937年10月12日 – 1939年3月10日 | |
ボリシェヴィキ全連邦共産党中央委員会組織局委員[3] | |
任期 1934年2月10日 – 1939年3月10日 | |
ソ連共産党中央委員会書記 | |
任期 1935年2月1日 – 1939年3月10日 | |
個人情報 | |
生誕 | Никола́й Ива́нович Ежо́в (1895-05-01) 1895年5月1日 ロシア帝国 サンクトペテルブルク |
死没 | 1940年2月4日(1940-02-04)(44歳) ソビエト連邦 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 モスクワ |
死因 | 銃殺刑 |
墓地 | ドンスコーイ共同墓地 |
市民権 | ソビエト連邦 |
政党 | ソ連共産党 |
配偶者 | アントニーナ・チトヴァ(1921 - 1930) エヴゲーニヤ(ロシア語版)(1930 - 1938) |
宗教 | 無神論 |
受賞 | |
署名 | |
兵役経験 | |
渾名 | 「Ежевика」[4][a] |
所属国 | ロシア帝国 ソビエト連邦 |
所属組織 | ロシア帝国陸軍 赤軍 |
軍歴 | 1915年 - 1917年(ロシア帝国陸軍) 1919年 - 1921年(赤軍) 1936年 - 1938年(赤軍) |
最終階級 | |
戦闘 | 第一次世界大戦 ロシア内戦 |
a. ^ エジェヴィーカ、「黒イチゴ」の意味 |
死後の1941年1月24日、エジョフが生前に受勲した勲章は全て剥奪された[8]。1998年、ロシア連邦最高裁判所はエジョフの名誉回復を否定した[9]。