バート・トラウトマン
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バート・トラウトマン(Bert Trautmann, 本名:ベルンハルト・カール・トラウトマン(Bernhard Carl Trautmann、OBE、1923年10月22日 – 2013年7月19日)は、ドイツ・ブレーメン出身のサッカー選手。1949年から1964年までイングランドのマンチェスター・シティFCに所属した。ベルト・トラウトマンとも。
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イギリスのマンチェスターシティ博物館に展示されているバート・トラウトマンの彫刻 | ||||||
名前 | ||||||
本名 | Bernhard Carl Trautmann | |||||
ラテン文字 | Bert Trautmann | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | ドイツ | |||||
生年月日 | (1923-10-22) 1923年10月22日 | |||||
出身地 | ドイツ国・ブレーメン | |||||
没年月日 |
(2013-07-19) 2013年7月19日(89歳没) スペイン・バレンシア州ラ・リョサ(スペイン語版) | |||||
身長 | 189cm | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | GK | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1948-1949 | セント・ヘレンズ | 43 | (0) | |||
1949-1964 | マンチェスター・C | 508 | (0) | |||
1964 | ウェリントン | 2 | (0) | |||
監督歴 | ||||||
1965-1966 | ストックポート | |||||
1967-1968 | プロイセン・ミュンスター | |||||
1968-1969 | オペル・リュッセルスハイム | |||||
1972-1974 | ミャンマー代表 | |||||
1975 | タンザニア代表 | |||||
1978-1980 | リベリア代表 | |||||
1980-1983 | パキスタン代表 | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
戦間期のドイツで育ち、第二次世界大戦初期にはドイツ空軍の空挺兵として3年間東部戦線で戦い、鉄十字勲章を含む5個の勲章を獲得した。第二次大戦後期には西部戦線に異動し、イギリス軍によって捕えられた。1,000人いたトラウトマンの連隊で生き残ったのはわずか90人であり、ランカシャー州アシュトン=イン=メーカーフィールドの捕虜収容所に移された。1948年にトラウトマンはドイツへの送還の申し出を拒否し、1948年に釈放されるとランカシャー州に定住、農作業を行いながら地元のサッカークラブ、セント・ヘレンズ・タウンAFC(英語版)でプレーした。
セント・ヘレンズでは優秀なキーパーとしての名声を得て、フットボールリーグのクラブからの関心を誘った。1949年10月には、国内最高峰のファーストディビジョンでプレーしていたマンチェスター・シティFCと 契約した。枢軸国の元空挺兵と契約したクラブの決定は抗議運動を呼び、トラウトマンの加入に反対する人々のデモには20,000人が参加したが、トラウト マンはプレーを通じてマンチェスター・シティのファンに受け入れられ、加入から250試合の内5試合を除く全試合に出場した。
1956年にはFWA年間最優秀選手賞を受賞。1956年のFAカップ決勝での活躍は伝説の域に入っている。バーミンガム・シティFCのピーター・マーフィーのタックルによって残り17分で重傷を負ったものの、プレーを続行して重要なセーブの数々を記録し、3-1のリードを守った。優勝メダルをかけたトラウトマンの首は著しく曲がっており、3日後のX線検査で骨折していることが明らかとなった。
マンチェスター・シティでは1964年までプレーし、545試合に出場した。現役引退後には指導者に転身し、まずはイングランドとドイツの下部リーグで、やがてドイツサッカー協会に派遣されてサッカーミャンマー代表、サッカータンザニア代表、サッカーパキスタン代表の監督を務めた。サッカーを通じてイギリスとドイツの相互理解を深めたことが評価され、2004年には大英帝国勲章(OBE)を授与された。2013年7月19日にスペイン・バレンシア近郊の自宅で死去。89歳だった。