ブルシーロフ攻勢
ウィキペディア フリーな encyclopedia
ブルシーロフ攻勢(ブルシーロフこうせい、ロシア語: Брусиловский прорыв、 ドイツ語: Brussilow-Offensive、ウクライナ語: Брусилівський прорив)は、第一次世界大戦中の1916年6月4日から9月20日にかけて、ロシア帝国軍と中央同盟諸国軍がガリツィア付近で戦った戦闘。現場は現在のウクライナ西部ガリツィアおよびブコビナであり、リヴィウ、コーヴェリ、およびルーツィク付近で展開された。会戦名は本作戦の発案者でもあるロシア南西方面軍司令官のアレクセイ・ブルシーロフ将軍の名からつけられた。
概要 ブルシーロフ攻勢, 交戦勢力 ...
ブルシーロフ攻勢 | |
---|---|
東部戦線(上)と作戦地域(下) | |
戦争:第一次世界大戦 | |
年月日:1916年6月4日 - 9月20日 | |
場所:ガリツィア・ヴォルィーニ | |
結果:ロシア軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
ロシア帝国 | オーストリア=ハンガリー帝国 ドイツ帝国 |
指導者・指揮官 | |
アレクセイ・ブルシーロフ | フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフ アレクサンダー・フォン・リンシンゲン |
戦力 | |
初期戦力 40個歩兵師団(573,000) 15個騎兵師団(60,000) |
初期戦力 39個歩兵師団(437,000) 10個騎兵師団(30,000) |
損害 | |
死傷者440,000 捕虜60,000 |
オーストリア・ハンガリー帝国 死傷者200,000–567,000 捕虜400,000–408,000 合計600,000–975,000 ドイツ帝国 死傷者350,000[3][1] オスマン帝国 死傷者12,000[4] 合計:962,000–1,337,000 [5] |
閉じる
フロリダ大学のグレイドン・タンストール教授はブルシーロフ攻勢を「オーストリア・ハンガリー軍にとって最悪の惨敗であり、協商国にとって最良の勝利であった」と述べている[6]。両軍あわせて200万人前後の死傷者を計上、これはのちの第二次世界大戦のスターリングラードの戦いに並ぶ数である。