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1976年に日本の北海道函館市で発生した亡命事件 ウィキペディアから
ベレンコ中尉亡命事件(ベレンコちゅういぼうめいじけん)は、冷戦時代の1976年9月6日、ソビエト連邦軍(ソ連防空軍)の現役将校であるヴィクトル・ベレンコ中尉が、MiG-25(ミグ25)迎撃戦闘機で日本の函館空港に強行着陸し、アメリカ合衆国への亡命を求めた事件である[1]。ミグ25事件とも呼ばれる[1]。
この事件により低高度侵入の有効性とルックダウン能力の重要性が浮き彫りになった他、それまで西側諸国に知られてこなかったMiG-25の性能が分解調査によって判明した。また、航空自衛隊の防空体制を根幹から揺るがし、日本における防衛論議の流れに変化が生じるきっかけとなった事件である。
1976年9月6日、ソ連防空軍所属のMiG-25戦闘機数機がチュグエフカ基地から訓練目的で離陸。そのうちヴィクトル・ベレンコ防空軍中尉が操縦する1機が演習空域に向かう途中で突如コースを外れ急激に飛行高度を下げた。
これを日本のレーダーサイトが午後1時10分頃に捉え、領空侵犯の恐れがあるとして、航空自衛隊千歳基地のF-4EJが午後1時20分頃にスクランブル発進した[1]。
空自は、地上のレーダーと空中のF-4EJの双方で日本へ向かってくるMiG-25を捜索した。しかし、地上のレーダーサイトのレーダーは航空機の超低空飛行には対応できず[注釈 1]、また、F-4EJのレーダーは地表面におけるレーダー波の反射による擾乱に弱く、低空目標を探す能力(ルックダウン能力)が低かった。
F-4戦闘機に付与されたルックダウン能力は、実用に供された戦闘機においては史上初めての試みであり、当時の先進国で一般的に運用されていた戦闘機の技術的な限界であった。それを上回るルックダウン能力を備えるF-14/F-15は当時の最新鋭機であり、開発したアメリカ空軍でも実戦配備が開始された直後で、当時の航空自衛隊にはまだ導入されていなかった。
また、ベレンコは日本領空に接近する前に迎撃機を飛来させる目的で高度を上げるも、「米軍機と勘違いして迎撃機は来なかった」と証言している[2]。
MiG-25は空自から発見されないまま、函館市の函館空港に接近、市街上空を3度旋回したあと、午後1時50分頃に滑走路に強行着陸した[1]。このとき着地点を誤って滑走路の中程寄りに接地したために、ドラッグシュートを使用したにもかかわらずオーバーランし、前輪をパンクさせて滑走路先の草地にあるILSローカライザーアンテナの手前で停止した。燃料は約30分しか残っていなかったという。
着陸時の一部始終は、空港敷地内で工事をしていた現場監督が撮影していた。監督は撮影しながら機体に近づいたが、ベレンコ中尉が銃を取り出して空に向けて威嚇発砲[3]したため危険を感じてフィルムを差し出した。のちにベレンコ中尉は、抵抗の意思がないことを示すためだったと証言している。また、航空機マニアの地元住民の学生が低空で飛ぶMiG-25に気づき、授業を抜け出し滑走路のフェンスを潜り抜け近づいたのが最初の接触だとの証言もあり、こちらも空中への威嚇発砲を受けたという。
MiG-25の着陸後、空港の航空管制官が自衛隊に着陸を通報したものの、警察に電話するように言われ、警察に電話したところ今度は自衛隊に連絡するようにとたらい回しをされてしまう。しびれを切らした航空管制官がとにかく早く来るように警察に伝えたところ、着陸から20分が経過した午後2時10分頃にようやく北海道警察の警官隊が到着した。その後函館空港とその周辺は、道警によって完全封鎖された。 道警は「領空侵犯は防衛に関わる事項であるが、日本国内の空港に着陸した場合は警察の管轄に移る」という管轄権を縦に、陸上自衛隊員を現場から締め出した。情報収集の為千歳基地から来た空自隊員も、函館空港事務所に行ったものの門前払いされた[4]。
6日当日の道警による任意取り調べに、ベレンコ中尉はアメリカ合衆国への亡命を要望[1]し、併せて「当初千歳空港を目指したが、空港の周辺は曇っていたため断念し、函館空港に着陸した」と供述した。
ソ連側は当日中にベレンコ中尉との面会と身柄および機体の早期引き渡しを要求したが、翌7日に身柄は東京に移送され、8日にはアメリカが亡命の受け入れを通告[1]。防衛庁の事情聴収を経て、9日には駐日ソ連大使館員がベレンコ中尉に面会し、意思確認をするとともに翻意を促したが果たせず、9日中に羽田空港から、ノースウェスト航空の定期便でアメリカに向かい出国する。10日には法務省から防衛庁に機体の管轄が移される。
時代背景的には、米ソデタント崩壊の直前という時期にあたる。緊張は緩和されていたとはいえ、相手陣営の軍用機が領空を侵犯し、また高度な機密情報を抱えたその機体を確保したことは、軽視できる事件ではなかった。また、ソ連軍(特殊部隊など)が「機体を取り返しに来る」とか「機密保全のため破壊しに来る」との噂が広まり[5]、実際にソ連側は潜水艦にヘリコプターとスペツナズ要員を積載し、日本で展開した後にMiG-25を破壊する計画を立てていた[2]。しかし、当時の三木武夫内閣は、野党及び国民からの反発を恐れ、防衛出動命令は一切出されなかった[注釈 2]。その為、当時の陸上幕僚長であった三好秀男の独断により、函館駐屯地司令に口頭で準備に掛からせ、第三種非常勤務体制が敷かれ[2]、北部方面隊第11師団隷下の第28普通科連隊は作戦準備にかかった。実際に、函館駐屯地で開催予定だった駐屯地祭りの展示用として用意されていた61式戦車、35mm2連装高射機関砲 L-90が駐屯地内に搬入され、ソ連軍来襲時には戦車を先頭に完全武装の陸上自衛隊員200人が函館空港に突入、防衛戦闘を行う準備がされていた。
その際、国籍不明機が3機西から飛来し、高射砲部隊は曳光弾を発射して迎撃準備をした。不明機を視認し発射しようとする段階で「友軍機」という連絡が入り、発射はされなかった。結局のところ、国籍不明機は航空自衛隊のC-1輸送機であった。発射命令は文官から全く許可を受けないで行われたため、教訓をまとめた文書は全部廃棄された[6]。
海上自衛隊は大湊地方隊を主力に3隻を日本海側、2隻を太平洋側に配置して警戒に当たり、函館基地隊の掃海艇は函館港一帯の警戒、余市防備隊の魚雷艇は函館空港付近の警備に当たった。同時に大湊基地のヘリコプターは常時津軽海峡上空で警戒飛行に当たり、上空には航空自衛隊のF-4EJが24時間哨戒飛行を実施した。
この際、海上自衛隊の竜飛警備所内に、陸上自衛隊東北方面隊の対戦車隊が集結し、64式対戦車誘導弾と60式106ミリ無反動砲を用意して、ソ連艦艇が強行侵入した場合の迎撃担当として待機していた。
実際にソビエト連邦外務省からは機体の即時返還要求があり、当時の最大野党である日本社会党もこれに同調したが、アメリカ軍は航空自衛隊の協力のもとで、9月24日に外交慣例上認められている機体検査のためにMiG-25を分解し、アメリカ空軍のロッキードC-5Aギャラクシーに搭載して茨城県の百里基地に移送した。そこで主翼を取り外され、ブルーシートでくるまれた状態で輸送機に積み込まれる機体には「函館の皆さんさようなら、大変ご迷惑をかけました」と書かれた横断幕が貼り付けられていた[7]。
移送の際には、ソ連軍による撃墜の可能性を考慮して、空自のF-4EJ戦闘機が函館から百里まで護衛に当たっている。機体検査の後、11月15日に機体はソ連に返還された。
事件終結後、日本国政府は対処に当たった陸自に対して、同事件に関する記録を全て破棄するよう指示したが、これに対し三好は自ら陸上幕僚長の辞意をもって抗議した。
この事件はパイロットの亡命が目的であったことから幸い実害は生じなかったが、仮に侵略や攻撃が目的であった場合、同様に航空自衛隊の防空網を簡単に突破されてしまうおそれがあることが露呈した[1]。このため、日本のレーダー網の脆弱性が批判され、日本の防空能力は必要最低限にすら達していないという声が上がった。この事件を契機に日本における防衛論議の流れに変化が生じ、それまでは予算が認められなかった早期警戒機E-2Cの導入もなされた。なお、航空自衛隊のF-4EJのうち、後に行われた近代化改修の対象機(F-4EJ改)は、レーダー換装によるルックダウン能力の改善が図られている。
一方のソ連側は、レーダーサイトが敵味方機を識別する暗号、ЯСС(Я - свой)を変更せざるを得なかった。また、当事件の調査のためチュグエフカ空軍基地を訪れた委員会は、現地の生活条件の劣悪さに驚愕し、直ちに5階建ての官舎、学校、幼稚園などを建設することが決定された。この事件は、極東地域を始めとする国境部の空軍基地に駐屯しているパイロットの待遇改善の契機ともなった。
一方で、事件の再発を恐れたソビエト空軍は、航空機に外国まで飛べるほど燃料を満タンに搭載するのを渋るようになった。柳田邦男は大韓航空機撃墜事件を扱った著書『撃墜』にて、同事件で領空に侵入してきた大韓航空機を迎え撃ったソ連の迎撃機は、燃料切れで相手を逃がすのを恐れて、撃墜を急いだという説を記述している。
また、この事件によって低高度侵入の有効性と、ルックダウン能力の低い戦闘機の問題点が浮き彫りにされてしまったため、当のMiG-25自身を時代遅れにしてしまうという皮肉な結果を招いた。MiG-25は高高度・高速侵入する敵機の迎撃が主目的で、低高度侵入する敵機への対処能力は空自のF-4EJよりさらに劣るからである[注釈 3]。後にソ連は、大幅に改良したMiG-31を開発することになる。
アメリカは、それまでMiG-25を超高速戦闘機として恐れており、それを意識する形もあってかF-15を開発していた。しかし、調査分析の結果、実際にはMiG-25はそれほどの脅威と呼ぶに値しなかったことが判明した。特にそれまで耐熱用のチタニウム合金製と考えられていた主翼や胴体にステンレス鋼板が多用されていたこと[8]、電子機器が真空管などを多用した、当時の水準としても著しく時代遅れなことに驚愕し、対ソ軍事戦略にも大きな影響を及ぼした。しかし「真空管を使うのは時代遅れ」との説や「MiG-25をアメリカが脅威視していた」という説には異論もある。
1976年8月29日、色丹島沖合で漁船3隻がソ連側に拿捕、船員3人が約1か月間抑留された[9]。また、同年10月1日にはビザの写しが入国管理当局に届いていないという理由で、日本航空の乗員6人の入国が拒否された[10]。
長谷川製作所は、本事件からわずか5か月後に「1/72 MiG-25 フォックスバット」のプラモデルを販売し、40万個以上を売り上げた。匿名の情報提供者からの情報に基づき設計されたが、偵察爆撃機型を参考にしていたために、戦闘機型としては形状が間違っているという、いわく付きであった。このため、数年後に他のメーカーがガンプラなどのキャラクター商品に集中していた時期も、長谷川製作所だけが従来の軍用機シリーズの販売に傾倒していた[11]。
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