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第一次世界大戦の講和条約 (トルコ共和国) ウィキペディアから
ローザンヌ条約(ローザンヌじょうやく、フランス語: Traité de Lausanne)は1923年7月24日、スイスのローザンヌにあるパレ・ド・リュミーヌ[2][3]で締結された講和条約。条約により、第一次世界大戦開戦以来、元オスマン帝国と連合国(フランス、イギリス、イタリア、日本、ギリシャ、ルーマニア)の戦争状態を終結させた[1]。西欧諸国が条約で定められたトルコ国境に基づきトルコ共和国を主権国家として認める代償として、トルコはそれ以外の元オスマン帝国領を放棄した[1]。条約の原文はフランス語で書かれた[1]。
「平和条約」、「海峡制度ニ関スル条約」、「トラース国境ニ関スル条約」、「居住裁判管轄ニ関スル条約」、「通商条約」、「「ローザンヌ」ニ於テ署名セラレタル文書中一定ノ規定ニ対スル白耳義国及葡萄牙国ノ加入ニ関スル議定書」、「「カラガツチ」ノ領域並「インプロス」島及「テネドス」島ニ関スル議定書」、「千九百二十年八月十日「セーヴル」ニ於テ主タル同盟国國及希臘國ニ於ケル少数民族ノ保護ニ関スル条約ニ関スル並「トラース」ニ関スル条約ニ関スル議定書」及「「セルブ、クロァート、スロヴェーヌ」国ノ署名ニ関スル議定書」 | |
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Accord relatif à la restitution réciproque des internés civils et à l'échange des prisonniers de guerre, signé à Lausanne | |
ローザンヌ条約により決定したトルコ国境 | |
通称・略称 | ローザンヌ条約 |
署名 | 1923年7月24日 |
署名場所 | スイス ローザンヌ |
発効 | 1924年8月6日 |
現況 | 失効 |
寄託者 | フランス共和国政府 |
文献情報 | 大正13年8月16日官報号外条約第9号 |
言語 | フランス語[1] |
条文リンク | 『官報.1924年8月16日』 - 国立国会図書館デジタルコレクション |
1920年にオスマン帝国のスルタン・メフメト6世が連合国と締結したセーヴル条約で東トラキアおよびイズミル地方を得たギリシャは、さらにその領土を拡大しようと小アジアに侵攻した(希土戦争)。ムスタファ・ケマル・アタテュルク率いるトルコ軍はこれを撃退し、イズミルを実力で奪還した。ケマルは続いてアルメニアを平定した。ケマルはソ連とモスクワ条約を、フランスとは休戦条約を締結した。また1922年にはスルタン制を廃止した[4]。
そこで連合国はセーヴル条約にかわる新たな講和条約を結ぶことにした。スイスのローザンヌでヴェルサイユ体制が7か月もかけて調整され、トルコ(アンカラ政府)とイギリス、フランス、イタリア、日本、ギリシャ、ルーマニア、ユーゴスラビア王国[注釈 1]の間で条約が調印された。
ローザンヌ条約によって連合国は原則として賠償請求権を放棄した。その代わり、ヴェルサイユ条約第259条第1項およびサン=ジェルマン条約第210条第1項により既に連合国で管理している500万トルコポンドを譲り受けた。そして1923年11月23日パリにおいて連合国間の分配に関する協定が成立したが、譲り受けた500万トルコポンドに加え、戦前オスマン帝国が軍艦購入資金としてイギリスで発行した五分利付国庫証券で、イギリス政府の保管している84万6100スターリング・ポンドを、各連合国へトルコからの被害額に按分比例のうえ分配することとなった[5]。
条約は1923年8月23日にトルコに批准され[6][7]、以降ギリシャが1923年8月25日に[6]、イタリアが1924年3月12日に[7]、日本が1924年5月15日に[7]、イギリスが1924年7月16日に批准した[8]。批准書が正式にパリで寄託された1924年8月6日、条約が発効した[1]。
この条約により近代トルコ国境が決定した。
国境変更以外の条項はおおよそ以下の通りである。
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