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日本の小説家 (1946-1992) ウィキペディアから
中上 健次(なかがみ けんじ、1946年〈昭和21年〉8月2日 - 1992年〈平成4年〉8月12日)は、日本の小説家[1]。妻は作家の紀和鏡、長女は作家の中上紀。
中上 健次 (なかがみ けんじ) | |
---|---|
誕生 |
1946年8月2日 日本・和歌山県新宮市 |
死没 |
1992年8月12日(46歳没) 日本・和歌山県東牟婁郡那智勝浦町 |
墓地 |
和歌山県新宮市 南谷墓地 |
職業 |
小説家 エッセイスト |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 和歌山県立新宮高等学校卒業 |
活動期間 | 1965年 - 1992年 |
ジャンル |
小説 エッセイ |
主題 | 紀州・熊野・路地・血族・性愛・物語・現代思想・アジア |
代表作 |
『岬』(1976年) 『枯木灘』(1977年) 『鳳仙花』(1980年) 『千年の愉楽』(1982年) 『地の果て 至上の時』(1983年) 『日輪の翼』(1984年) 『奇蹟』(1989年) |
主な受賞歴 |
芥川龍之介賞(1976年) 毎日出版文化賞(1977年) 芸術選奨新人賞(1978年) |
デビュー作 | 「十八歳」(1965年) |
配偶者 | 紀和鏡 |
子供 | 中上紀、中上菜穂 |
影響を受けたもの
| |
ウィキポータル 文学 |
和歌山県新宮市生まれ。和歌山県立新宮高等学校卒業。新宿でのフーテン生活の後、羽田空港などで肉体労働に従事しながら作家修行をする。1976年『岬』で第74回芥川賞を受賞、戦後生まれで初めての芥川賞作家となった。
紀伊半島(紀伊)を舞台にした数々の小説を描き、ひとつの血族と「路地」(中上は被差別部落の出身で、自らの生まれた部落を「路地」と名付けた)のなかの共同体を中心にした「紀州熊野サーガ」[2]とよばれる独特の土着的な作品世界を作り上げた。
和歌山県新宮市で父、鈴木留造(とめぞう[3])と母、木下ちさと[3](千里)[4]との間に私生児として生まれた[5]。ちさとは、健次を妊娠中に、ある女性から、留造には他に女が二人いてそのうちの一人は妊娠しているという事実を知らされる。ちさとは留造と別れて一人で健次を産んだ[6]。留造はこの女性と結婚し、この女性は健次の異母弟を産む。留造はこの女性との間にさらに二児をもうけた[注釈 1]。
ちさとには死別した前夫の木下勝太郎との間に既に四人の子供がおり、留造と別れたあとは女手一つで行商をしながら子供たちを育てる[8]。1953年、ちさとは、後に健次の義兄となる男児と二人で暮らす中上(なかうえ)七郎と出会い、まだ7歳と幼かった末子の健次だけを連れて同居、四人での生活をはじめた[9]。七郎はこの頃は日雇いの土木作業員であったが、のちに土建請負業者になる[10]。
1953年、新宮市立千穂小学校に入学する。1959年、小学六年生の終わり頃、12歳年上の異父兄・木下行平(いくへい[11])が24歳で、アルコール中毒の果てに縊死するという事件が起こる。行平は、ちさとと健次が中上七郎と暮らすために引っ越した後、もとの家に一人残され、鶏を飼いながら孤独に暮らしていた[12]。見捨てられたと感じていた行平は、酒に酔っては斧を手にして、健次たちの家に何度もどなり込んできたという[12]。行平の自殺は健次の大きなトラウマとなった[13][注釈 2][注釈 3]。
1962年、中学校卒業の直前、ちさとと健次は、七郎のもとに入籍する[17][18]。同年、和歌山県立新宮高等学校に入学する。マルキ・ド・サド、ルイ=フェルディナン・セリーヌ、ジャン・ジュネなどを読む[注釈 4]。また、当時新進作家だった大江健三郎[注釈 5][注釈 6]や石原慎太郎などの日本人作家の作品も読んでいる[27][28][注釈 7][注釈 8]。
1965年、早稲田大学受験の名目で同級生とともに上京するが[35]、実際に大学受験をしたかどうかは定かではない[36][37]。その後入学した早稲田予備校には三ヶ月も通っておらず[38]、仕送りを受けながら、仕事もせずに、新宿あたりをうろつくといった生活をしていた[39][注釈 9]。当時盛んだったフリージャズを中心とするモダンジャズにのめりこみ、ジャズ喫茶のジャズビレッジ[注釈 10] やビレッジバンガード[注釈 11]に入り浸った[注釈 12]。
1965年の秋、原稿を投稿するために月会費を払い込んで同人誌『文藝首都』[注釈 13]の会員となる[48]。翌年、投稿した『俺十八歳』が掲載される[注釈 14]。その後、同誌の同人となり[51]エッセイ、創作を同誌に発表していく[注釈 15]。この頃は、盛んに詩作をしており『文藝首都』『詩学』『文學界』などへ詩を発表している[34][注釈 16]。また『文藝首都』を通じて、後に妻となる山口かすみ[注釈 17] や津島佑子[注釈 18]と知り合っている。
1967年頃には新左翼運動に関わっている[56]。偽学生として早稲田大学でブント系の組織と接触して羽田闘争に参加している[31][57]。1968年、『三田文学』誌を通じて柄谷行人 と知り合い[注釈 19][注釈 20] 、柄谷からウィリアム・フォークナー[注釈 21] 、エリック・ホッファーなどを勧められて大きな影響を受けた。1970年、交際していたかすみの妊娠を機に結婚する。入籍時、名字の読み方をそれまでの「なかうえ」から「なかがみ」に変更する[注釈 22]。結婚をきっかけにして、中上は肉体労働を始め[63]、その夏から羽田空港で貨物の積み下ろし業務に従事する[34][64][注釈 23]。
1973年『十九歳の地図』が芥川賞候補となる。これを受けて1974年から文芸誌への作品掲載が増え始める[66][注釈 24] 。羽田での仕事を辞めて、その後二年間、築地魚河岸や運送会社などでフォークリフトの運転手をして生計をたてながら[34][67]執筆を続ける。1975年『鳩どもの家』『浄徳寺ツアー』が続けて芥川賞候補となる。1976年、熊野の「路地」を舞台に、家業の土方仕事に従事[注釈 25]する青年を中心とした複雑な血族の物語を描いた『岬』[注釈 26]で第74回芥川賞を受賞する。戦後生まれで初めての受賞者であった。
1976年『岬』の続編として、自身初の長編小説で代表作となる『枯木灘』を上梓する。本作は『岬』の土着的世界に、父と子の対決という構図を前面に出してオイディプス的な神話的相貌を与え、また雑賀孫一伝説を取り入れ歴史的な重層性を持たせることで、格段にスケールを大きくした作品で[70]、高い評価を獲得した。同作品で毎日出版文化賞、芸術選奨新人賞を受賞する。1977年、紀伊半島全域を旅して巡るドキュメント『紀州 木の国 ・根の国物語』[注釈 27]を『朝日ジャーナル』に連載する。この旅行は作家にとって自らの文学の背景である紀州熊野というトポスを再発見する機会であった。同年、ニューヨーク、ハーレム地区に滞在する[71][72]。1978年、郷里の文化振興のため、吉本隆明[注釈 28] らを招いた連続公開講座を開催する[75]。
1979年、一家でロサンゼルスへ移住する[76][77][78]。1980年、実母をモデルにした小説で『岬』の前日譚にあたる『鳳仙花』を発表する。1981年、ソウル汝矣島に滞在し金芝河ら韓国の文学者と交流する[79]。1982年、「淫蕩な歌舞音曲好きの澱んだ血」[80]筋により愉楽に満ちた生を送り、一方で引き換えに早死にも宿命づけられた、高貴な血を引く若者たちの短い生涯を描いた短編連作『千年の愉楽』[注釈 29] を発表する。代表作の一つとされる。同年、アイオワ大学インターナショナル・ライターズ・プログラム客員研究員としてアイオワに滞在してプログラムに招聘された世界の文学者と対話する[82]。
1983年、『岬』『枯木灘』の続編にあたる書き下ろしの大作『地の果て 至上の時』[注釈 30]を発表する。本作と連作短編集『熊野集』(1984年)では,自身の文学的トポスである「路地」の経済開発による消滅が主題とされた[注釈 31][注釈 32]。続く1984年発表の長編『日輪の翼』[注釈 33][注釈 34][注釈 35]では「路地」の消滅後に、故郷を捨てて流浪する若者の姿が描かれた。1986年、コロンビア大学の客員研究員としてニューヨークに滞在している[87][注釈 36]。1988年、三島由紀夫賞が創設され[注釈 37] 選考委員となる。1989年、『千年の愉楽』の続編となる長編『奇蹟』[注釈 38]を発表する。同年、地元文化交流の組織である「熊野大学」の開設 [93]をする。
1990年、『日輪の翼』の続編となる『讃歌』を発表する。1990年に永山則夫が日本文藝家協会から死刑囚であることを理由に入会を断られた際、この決定に抗議して柄谷行人、筒井康隆とともに協会を脱会している[94][34]。 1991年、湾岸戦争への自衛隊派遣に抗議し、柄谷行人、津島佑子、田中康夫らとともに『湾岸戦争に反対する文学者声明』を発表した。
作家として多忙をきわめ、それまでの「路地」を主題とした作風からの転換を示す『軽蔑』を上梓した矢先の1992年夏、腎臓癌のため和歌山県東牟婁郡那智勝浦町内の日比病院で死去した[注釈 39]。連載または休載中だった『異族』『鰐の聖域』『熱風』『大洪水』[注釈 40] 『宇津保物語』などが未完となり、『異族』[注釈 41]『鰐の聖域』が没後刊行された(それ以外の未完作品は全集にのみ収録されている)。
没後、1995年〜1996年に集英社から柄谷行人、浅田彰、四方田犬彦、渡部直己を編者として全集(15巻)が刊行された。その後、1998年〜2000年に小学館より文庫選集(12巻)が刊行された。2012年〜18年、インスクリプトより選集(10巻)が刊行されている。2016年〜17年、小学館より電子書籍として中上健次電子全集(21巻)が刊行されている。
2023年、岩波文庫より『中上健次短編集』が刊行された。
現在も「熊野大学」主催による「熊野大学夏季セミナー」が毎夏に新宮市で開催されている。講師には、柄谷行人、浅田彰などが参加している[34]。受講生にはモブ・ノリオなどがいた[95]。
西暦 | 年齢 | 出来事 | 出版 |
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1946 | 和歌山県新宮市に生まれる。 | ||
1953 | 7 | 新宮市立千穂小学校に入学する。 母ちさと(千里)が義父となる中上七郎と同棲を始める。 | |
1959 | 13 | 異父兄、木下行平が自殺する。 新宮市立緑丘中学校に入学、中上姓を名乗る。合唱部に所属し歌唱の才能をしめす。 | |
1962 | 16 | 和歌山県立新宮高校に入学する。高校では文芸部に入部する。 | |
1965 | 19 | 和歌山県立新宮高校を卒業して大学受験を名目に上京する。以後、高田馬場、代々木、沼袋、練馬[要曖昧さ回避]と移り住む。 新宿でのフーテン生活が始まる。 同人誌「文藝首都」に入会する。 | |
1966 | 20 | 処女作「俺十八歳」が「文藝首都」に掲載される。 | |
1967 | 21 | 羽田闘争に参加するなど新左翼運動に関わる。 | |
1968 | 22 | 「三田文学」を通じて柄谷行人と知り合う。 | |
1969 | 23 | 「一番はじめの出来事」が「文藝」に掲載され商業誌デビューする。 | |
1970 | 24 | 山口かすみ(紀和鏡)と結婚する。 日野自動車羽村工場に期間工として勤務する。 羽田空港で貨物専用航空会社で貨物の積み降ろし業務に従事する。 東京都国分寺市西町に転居する。 | |
1971 | 25 | 長女・紀が誕生する。 | |
1973 | 27 | 「十九歳の地図」が芥川賞候補作となる。 次女・菜穂が誕生する。 東京都小平市小川町へ転居する。 | |
1974 | 28 | 羽田での仕事を辞め、文筆のかたわら築地魚河岸の軽子などで生計をたてる。 | 創作「十九歳の地図」 |
1975 | 29 | 「鳩どもの家」、「浄徳寺ツアー」が続けて芥川賞候補作となる。 | 創作「鳩どもの家」 |
1976 | 30 | 「岬」で芥川賞を受賞する。 「PLAYBOY」掲載小説の取材で初の海外渡航、香港、マカオを旅行する。 映画「青春の殺人者」が公開される。 | 創作「岬」「蛇淫」 エッセイ等「鳥のように獣のように」 |
1977 | 31 | 「枯木灘」で毎日出版文化賞を受賞する。 「枯木灘」が谷崎賞候補となるも落選する。 ドキュメント「紀州木の国・根の国物語」のため紀伊半島全域の取材旅行をおこなう。 ニューヨーク、ハーレム地区近くのアパートメントに滞在する。 | 創作「枯木灘」「十八歳、海へ」 エッセイ等「中上健次VS村上龍」 |
1978 | 32 | 「枯木灘」で芸術選奨新人賞を受賞する。 韓国ソウルから全羅北道全州にかけて民俗芸能の取材旅行をおこなう。 「部落青年文化会」を組織し「連続公開講座」を開催する。 長男・涼が誕生する。 この年、新宮の土地改良事業の工事が着手され「路地」の解体が始まる。 | 創作「化粧」 エッセイ等「紀州木の国根の国物語」 |
1979 | 33 | 野外劇「かなかぬち」が初演される。 映画「赫い髪の女」が公開される。 映画「十八歳、海へ」が公開される。 映画「十九歳の地図」が公開され、翌年カンヌ映画祭に出品される。 家族でカリフォルニア州ロサンゼルスに移住する。 | 創作「水の女」 エッセイ等「夢の力」「破壊せよ、とアイラーは言った」「小林秀雄をこえて」 |
1980 | 34 | 「鳳仙花」が谷崎賞候補となるも落選する。 アメリカ生活をきりあげ三重県熊野市新鹿町に転居する。 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町大字勝浦[要曖昧さ回避]にマンションを購入し仕事場を構える。 | 創作「鳳仙花」 |
1981 | 35 | 韓国のソウル特別市汝矣島のアパートで単身生活する。 東京都八王子市谷野町に転居する。 | エッセイ等「東洋に位置する」 |
1982 | 36 | インドからパキスタン、イラン、トルコ経由でロンドンまで「マジックバス」の旅行をおこないTV放映される。 インターナショナル・ライターズ・プログラム客員研究員としてアイオワ大学に滞在する。 | 創作「千年の愉楽」 |
1983 | 37 | 「地の果て 至上の時」が谷崎賞候補となるも落選する。 東京都新宿区西新宿のマンションに仕事場を構える。 | 創作「地の果て至上の時」 エッセイ等「風景の向こうへ」 |
1984 | 38 | 「日輪の翼」で谷崎賞候補となるも落選する。 「物語ソウル」「輪舞する、ソウル。」のためソウルへ取材旅行をおこなう。 香港、マニラ、ペシャワール、ジャカルタ、バリ島などアジア各地に取材旅行にでている。 | 創作「日輪の翼」「物語ソウル」「熊野集」「紀伊物語」 エッセイ等「君は弥生人か縄文人か」 |
1985 | 39 | 映画「火まつり」が公開されてカンヌ映画祭に出品される。 フランス・ファイヤール社と翻訳出版契約の話し合いをもつ。 ベルリン自由大学主催フェスティバル参加でドイツへ向かうも急性B型肝炎のため急遽帰国入院する。 パリ、エコールノルマルで三島由紀夫について講演をおこなう。 | エッセイ等「都はるみに捧げる」「アメリカ・アメリカ」「火の文学」「輪舞する、ソウル。」「俳句の時代」 |
1986 | 40 | 映画「火まつり」で毎日新聞映画コンクール脚本賞を受賞する。 野外劇「かなかぬち」が熊野本宮大社で上演される。 コロンビア大学客員研究員としてニューヨークに滞在する。 サムルノリ日本公演のプロデュースに携わる。 パリ、ポンピドゥ・センター「前衛の日本」展でジャック・デリダと公開対談をおこなう。 | 創作「野生の火炎樹」「十九歳のジェイコブ」 エッセイ等「スパニッシュ・キャラバンを探して」「オン・ザ・ボーダー」 |
1987 | 41 | フィンランド、ラハティで国際作家会議に参加し、講演をおこなう。 品川ウォーターフロントでイベント「吉本隆明25時──24時間講演と討論」を吉本、三上治と主催する。 | 創作「火まつり」「天の歌」 エッセイ等「アメリカと合衆国の間」 |
1988 | 42 | 三島由紀夫賞が創設され選考委員となる。 BBC 他、英仏西共同制作のTVドキュメンタリー「ライターズ・オン・ザ・ボーダー」の取材を受ける。 東京都八王子市谷野町の自宅が火災で全焼、東京都府中市栄町に転居する。 | 創作「重力の都」 エッセイ等「時代が終り、時代が始まる」「バッファロー・ソルジャー」 |
1989 | 43 | 「奇蹟」が谷崎賞候補作となるも落選する。 新宮市で「熊野大学準備講座」を発足させる。 東京都・中野に単身生活のためのマンションを借りる。 | 創作「奇蹟」 |
1990 | 44 | 「讃歌」が谷崎賞候補作となるも落選する。 永山則夫の日本文藝家協会入会拒否に抗議して同会を脱会する。 フランクフルト日本ブックフェアのシンポジウムに大江健三郎らと参加、講演をおこなう。 | 創作「讃歌」 エッセイ等「20時間完全討論 解体される場所」 |
1991 | 45 | 「湾岸戦争に反対する文学者声明」を柄谷行人らと発表する。 奉納コンサート「都はるみin 熊野神社」をプロデュースする。 フランス、ブロワ市の日仏文化サミット参加後、ドイツへ渡り、ハイデルベルク大学で戯曲「ふたかみ」を演出する。 | |
1992 | 46 | 血尿をみて年初より入院し、8月12日、腎臓癌により死去する。 | 創作「軽蔑」 |
中上健次電子全集21巻収録の中上健次年譜(作製・高澤秀次)による。
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