井上家
囲碁の家元四家のひとつ / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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この項目では、囲碁の家元について説明しています。他の井上家については「井上氏」をご覧ください。 |
井上家(いのうえけ)は江戸時代、本因坊・安井家・林家に並ぶ囲碁の家元であり、名人を2名出している。
初代道碩を除き、代々当主は因碩を名乗るしきたりであった。このため「春碩因碩」「幻庵因碩」などと、跡目(次期家元に指名された者)時代の名や隠居後の名をつけて区別することが多い。
初代名人である本因坊算砂の高弟で二世名人の中村道碩を祖とする。当初、玄覚因碩が一世と位置づけられていたが、幻庵因碩の時代に中村道碩を系譜に組み入れ、以降の家元を一代ずつずらす措置がとられた[1]。歴代家元の中で最も知名度が高いのはこの十一世・幻庵因碩で、本因坊丈和と名人の地位を激しく争ったことで知られる[2]。禄高は一世中村道碩の時の1612年(慶長17年)に本因坊(算砂)に次ぐ50石だった[3]。
1737年(元文2年)の「碁将棋名順訴訟事件」では、井上家は安井家、林家とともに、本因坊、将棋名人に次ぐ序列とされた[4]。
1748年(寛延元年)に琉球使節で田上親雲上、与那覇里之子が来訪した際、当時唯一の七段だった六世井上春碩因碩と門弟の岡田春達が三子、四子で対局して両者とも敗れ、春碩は田上に四段の免状を与えて「日本国大国手」と署名した[5]。
十四世大塚因碩以降、井上家は大阪に拠点を移した。井上家は家元四家の中では最も長続きし、十七世の津田因碩が1983年に死去して断絶した。