北条氏綱
日本の武将・戦国大名 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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北条 氏綱(ほうじょう うじつな)は、戦国時代の武将、戦国大名。後北条氏第2代当主。
概要 凡例北条 氏綱, 時代 ...
北条氏綱肖像画(小田原城所蔵) | |
時代 | 戦国時代 |
生誕 | 長享元年(1487年) |
死没 | 天文10年7月19日(1541年8月10日) |
改名 | 伊勢伊豆千代丸(幼名) → 氏綱 → 北条氏綱 |
別名 | 通称:新九郎 |
戒名 | 春松院快翁活公 |
墓所 | 早雲寺(神奈川県足柄下郡箱根町) |
官位 | 従五位下 左京大夫、贈従三位[1]。 |
幕府 | 関東管領(足利晴氏補任) |
氏族 | 伊勢氏 → 後北条氏 |
父母 |
父:伊勢宗瑞(北条早雲) 母:小笠原政清の娘 |
兄弟 | 氏綱、氏時、葛山氏広、長綱(幻庵) |
妻 |
正室:養珠院 継室:近衛殿(近衛尚通女) |
子 | 氏康、為昌、氏尭、大頂院(北条綱成室)、高源院(崎姫、山木大方、堀越六郎室)[2][3]、浄心院(太田資高室)、芳春院(足利晴氏継室)、ちよ(葛山氏元室)、女(吉良頼康室)[4] |
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伊豆国・相模国を平定した伊勢宗瑞 (伊勢盛時、北条早雲) の跡を継いで領国を武蔵半国、下総の一部、そして駿河半国にまで拡大させた。また、「勝って兜の緒を締めよ」の遺言でも知られる。
当初は伊勢氏を称しており、北条氏を称するようになるのは父・宗瑞の死後の大永3年(1523年)か大永4年(1524年)からである。宗瑞は北条氏を称することは生涯なかったが、後北条氏としては氏綱を2代目と数える。なお、氏綱以降の当主が代々通字として用いることとなる「氏」の字は、宗瑞の別名として伝わる「長氏」「氏茂」「氏盛」の偏諱に由来するものとも考えられるが(もっとも、近年の研究では宗瑞の諱は「盛時」であったとするのが定説となっている)、氏綱の元服時に宗瑞がまだ今川氏の姻族・重臣であったことから従兄である今川氏親からの偏諱として与えられたのではないかとする説がある[5]。