千葉大学
千葉市稲毛区にある国立大学 ウィキペディアから
千葉市稲毛区にある国立大学 ウィキペディアから
千葉大学(ちばだいがく、英語: Chiba University)は、千葉県千葉市稲毛区弥生町1番33号に本部を置く日本の国立大学。1872年創立、1949年大学設置。大学の略称は特になく、千葉大(ちばだい)と呼ばれる。旧制官立千葉医科大学の流れを汲む、旧官立大学の一つである。
千葉大学 | |
---|---|
大学設置 | 1949年 |
創立 | 1872年 |
学校種別 | 国立 |
設置者 | 国立大学法人千葉大学 |
本部所在地 |
千葉県千葉市稲毛区弥生町1番33号 北緯35度37分35.4秒 東経140度6分8.8秒 |
学生数 | 13,983 |
キャンパス | |
学部 | |
研究科 | |
ウェブサイト |
www |
千葉大学は、1949年(昭和24年)に千葉医科大学・同附属医学専門部・同附属薬学専門部、千葉師範学校、千葉青年師範学校、東京工業専門学校、千葉農業専門学校を包括して新制の国立大学として発足した。国立大学法人法により、2004年度には国立大学法人千葉大学となる。
新制国立大学として発足した当時は、5学部(医学部、園芸学部、学芸学部、工芸学部、薬学部)から成り立っていた。その後に学部研究科の拡充改組を重ね、現在は10学部(国際教養学部、文学部、教育学部、法政経学部、理学部、医学部、薬学部、看護学部、工学部、園芸学部)、大学院11研究科(教育学研究科、理学研究科、看護学研究科、工学研究科、園芸学研究科、融合科学研究科、人文社会科学研究科、医学薬学府、専門法務研究科<法科大学院>、自然科学系研究科アソシエーション)によって構成されるに至る。
学部学生数10,381名[2]、大学院生数3,300名[3]、計13,681名(2021年5月1日時点)。
国立大学法人化をきっかけに2005年10月11日、千葉大学憲章(理念と目標)と行動規範が制定された[4]。「つねに、より高きものを目指して」を理念としている。
前身となった学校に個性的なものが多かったこともあり、それを引き継ぐ形で国立大学としては独自色の強い学部・学科が多い、首都圏の総合大学である。国際教養学部、法政経学部、園芸学部、看護学部は国立大学で唯一設置されている。
一方で各学部や大学院研究科、附属機関が持つ資料や研究成果を電子データ化して、教育などに活用する「デジタル・スカラシップ」構想を進めている。その中心として千葉大学アカデミック・リンク・センターを設け、活動の一環として古文献や写真などを学外にも開放する「千葉大学学術リソースコレクション」 (c-arc) を2018年に稼働させた[5]。
全国の国公立大学の中では志願者数が多く、2021年時点で6年連続で志願者数1位となっている[6]。
西暦 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 |
---|---|---|---|---|---|---|
順位(位) | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 | 1 |
人数(人) | 11,565 |
特徴的な入試制度を実施している。1998年には飛び入学制度を日本の大学で初めて開始、また「理数大好き学生選抜」も導入している。飛び入学制度は全国の国公立大学で初となる[7]、2014年9月より、高校3年生が9月から入学できる「秋飛び入学」を全国の国立大学で初めて開始した[8]。本学においては飛び入学制度を「先進科学プログラム」と称しており、【1】物理学関連分野 (理・物理学科)、【2】化学関連分野(理・化学科)、【3】生物学関連分野(理・生物学科)、【4】光学関連分野(工・総合工学科)、【5】植物生命科学関連分野(園芸・応用生命科学科)、【6】人間科学関連分野(文・人文学科・行動科学コース)の6つの分野を設けている[9]。
2014年5月2日時点で累計60名の卒業生が輩出されており、進路は研究者、技術者など様々である[10]。
西暦 | 98 | 99 | 00 | 01 | 02 | 03 | 04 | 05 | 06 | 07 | 08 | 09 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
志願者数 | 11 | 14 | 17 | 8 | 14 | 10 | 19 | 19 | 20 | 23 | 27 | 28 | 18 | 16 | 22 | 15 | 17 | 36 | 19 |
合格者数 | 3 | 3 | 3 | 4 | 2 | 3 | 8 | 7 | 9 | 6 | 7 | 5 | 6 | 2 | 2 | 4 | 5 | 5 | 2 |
全学的に国際化を推進している。2010年度から2014年度までの4年連続で、協定等に基づく海外への日本人学生派遣数は全国の国公立大学で最多である[12][13][14][15]。1991年、留学生センター(現・国際教育センター)が設置されたが、その起源は1960年から本学と東京外国語大学との2校で開始された日本の国立大学へ3年次編入を希望する国費留学生に向けた教育課程まで遡ることができる[16][17]。
2012年4月、2021年度までに世界大学ランキング100位内、TOEIC全学平均730点などを目標として掲げる「千葉大学国際化の方針-グローバル・キャンパス・千葉大学」を制定[18]。2012年度には、我が国のグローバル化を先導する大学として、文部科学省「大学の世界展開力強化事業」に全国17大学の内の一つとして、また文部科学省グローバル人材育成推進事業〔全学推進型〕の全国11大学の内の一つとして採択[19]。平成26年9月26日、文部科学省のスーパーグローバル大学等事業「スーパーグローバル大学創成支援」の37大学の内の一つに採択[20]。左記支援事業の対象に選ばれたことを受け、2015年にはタイ国立マヒドン大学(バンコク)にサテライトキャンパスを開設し、2016年にはグローバル人材を育成するための国際教養学部を設立。2025年前後を目標に、英語での授業を現在の150クラスから700クラスに、入学定員の半分である1,200人が在学中に留学、外国人留学生受け入れを現在の1,000人から3,000人に増やす数値目標なども定め、世界を代表する大学を目指している[21][22]。
西暦 | 11 | 12 | 13 | 14 |
---|---|---|---|---|
学生数 | 359 | 523 | 539 | 596 |
国公立大順位 | 1 | 1 | 1 | 1 |
西暦 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
---|---|---|---|---|---|
学生数 | 1025 | 961 | 884 | 819 | 786 |
国公立順位 | 12 | 12 | 12 | 13 | 13 |
タイムズ・ハイアー・エデュケーションによる『THE世界大学ランキング 2022-2023』で、第1001-1200位(国内第21位)に位置している[23]。2022年の「世界大学学術ランキング」では、国内14-19位、世界601-700位[24]。2023年の「QS世界大学ランキング」2016年では、第490位、アジア131位[25]。
西暦 | 13 | 14 | 15 | 16 |
---|---|---|---|---|
世界順位 | 301-400 | 301-400 | 301-400 | |
国内順位 | 11 | 10 | 10 |
千葉大学はGHQによる指導の下、1949年(昭和24年)の学制改革の際に新制大学として旧制大学の千葉医科大学(医学部)を主な母体として設立された。
1949年(昭和24年)10月に学内公募により制定。Chiba Daigakuの頭文字「C」と「D」を組み合わせるとともに、千葉大学の「千」を配して構成されたもので、輪郭は無限の生命力を象徴する植物の種子を象ったもの。左側部分のえんじ色は情熱を、右側部分の白色は純粋を表現しており、赤穴宏(元千葉大学名誉教授)のデザインによる。長きに亘り、千葉大学のシンボルマークとして使用されてきたが、コミュニケーションマークの誕生により、歴史や伝統を反映した由緒あるこのマークを2013年(平成25年)3月、千葉大学の学章として制定[27]。
初めてのコミュニケーションマークは、2013年(平成25年)1月に本学関係者への公募により制定。千葉大学の頭文字Cと地球をモチーフにし、世界に飛躍する大学であることを表現した。使用されている赤は伝統を引き継いだ大学カラーを使用し、そこに地球や空をイメージするスカイブルーを入れ、9つの赤い部分は9学部を表す。
国際教養学部の新設によって全10学部となった2016年(平成28年)、コミュニケーションマークが改められた。色は大学カラーのガーネットを基調とし、形は学生・教員・職員のコミュニケーションを表現している[27]。
ガーネット色 (C:0%, M:100%,:70%,K:20%)
『千葉大学歌』が学歌として制定されている。1960年(昭和35年)2月11日に制定され、作詞は勝承夫、作曲は平井康三郎によるもの。入学式や卒業式の際に歌われる。昭和33年に学内で学歌を制作しようという気運が高まったのが発端となり、制定されるに至った[27]。
2016年、同大学では41年ぶりの学部新設となる「国際教養学部」を全国の国立大学において初めて設立[28]。
文学部を設置している国立総合大学は、全国的にも数少ない。都心からのアクセスの良さとも相まって、関東圏の人文科学系を志望する学生が本学部を志望するため、総合大学文学部としての入試難易度偏差値は旧帝国大学に次ぐレベルを維持している。
複数学問分野を包括する行動科学コースを除いて、一コースの定員は約40名と高校の一クラス程度である。その一方で、教員1名当たりの学生数が約10人という少人数指導による教員との距離の近さや、学科内諸講座間の垣根が低いことと相まって、きめ細やか、かつ幅広い視野からの指導を受けられるという利点がある。
独立した史学科(歴史学科)を持つ国公立大学は全国でも5校ほど。
行動科学コースにおいては、千葉大学の文系学部における唯一の飛び入学(先進科学プログラム 人間探求コース)を実施している。
千葉大学の設立時に千葉師範学校と千葉青年師範学校が統合、学芸学部として誕生。翌年に東京医科歯科大学予科を包括し、学芸学部が文理学部と教育学部に改組されて現在に至る。千葉師範学校の源は1872年の学制発布の年に溯れ、千葉大学の全学部中最古の歴史がある。
1982年度には大学院教育学研究科が設置される。教員として働く合間に通える夜間大学院などの制度を整備しており、長期研修制度と相まって現役教員も多く通っている。
正規採用教員採用率では全国の大学の中でも例年上位におり、平成18年3月卒業者において49.1%で全国国立大学第1位[29]、平成22年3月卒業者においては51.1%で全国国立大学第一位の実績を持っている[30]。
2014年度より法経学部から改組。改組前は、法学科、総合政策学科、経済学科の3学科制を敷き、入学の段階でいずれかの学科を選ぶ体制であったほか、2004年に大学院専門法務研究科(法科大学院)を発足させる。千葉大学の法科大学院は主として一般市民のために法律サービスを提供する法律家の養成を目指している。
改組後は法政経学科入学後、1年次に社会科学の基礎を学び、2年進級時に法学コース、政治・政策学コース、経済学コース、経営学コースの中から自ら選択できる体制となった。単位の約2割を別コースの授業から選択できる[31]。
法政経学部への改組前には学科の一つとして総合政策学科が設置され、改組後も政治・政策学コースとして残っていることからも分かるように、国際政策、環境政策、社会保障、公共哲学などの総合政策学に力を入れており、全国の国公立大学では唯一、政策学系と政治学系の両分野を備えている。
経済学コースにおいては、成績優秀者を対象とした「特進プログラム」を設置。所定の要件を満たすことを条件に、3年次終了時点での学部早期卒業が認められる[32]。
2017年度からは法学、経済学、経営学・会計学、政治学・政策学・公共学などの社会科学系諸分野を学際的で機動的な研究・教育を促進するために、それまでの大学院人文社会科学研究科を、研究組織と教育組織を分離し、研究組織としての大学院社会科学研究院を、そして教育組織として人文公共学府(法と社会研究センター、公共研究センター、社会経済研究センター[注 18])を誕生させた。社会科学研究院は、多元的でグローバルな時代における社会問題の解決に貢献するために、法学や政治学・政策学、経済学・経営学・会計学までの観点から理論的・実践的な研究を学際的に推進。
組織誕生後は社会科学研究院及び人文公共学府の各研究センターの組織で法政経学部、大学院人文公共学府及び大学院専門法務研究科ほかの教育に携わっている。
法政経学部と大学院専門法務研究科は、2020年3月には学部と法科大学院の教育の円滑な接続をはかるための法曹養成連携協定を文部科学省から認定され、法科大学院の教育と司法試験等との連携等に関する法律(連携法)に基づく連携法曹基礎課程となる「法曹コース・プログラム」を同年4月に開設。これは法科大学院2年コースの教育課程と一貫的・体系的に編成された教育課程で、基本的な法分野の学修を終えて学士(法学)の学位を取得後もしくは3年間で早期に終え[注 19]、法科大学院に進学することを目指すためのプログラムとなっている。
1968年(昭和43年)に文理学部が改組、人文学部・理学部に分かれて設置され現在に至る。
本学理学部出身(生物学)の丸山工作学長時、理学部物理学科において日本で初めての飛び入学制度(先進科学プログラム)を導入した。
工学部の母体である東京高等工芸学校(戦時中に東京工業専門学校と改称)は、戦前よりインダストリアルデザイン(工業デザイン)についての教育を行った数少ない学校である。その流れは現在もデザイン学科(旧称はデザイン工学科。工業意匠学科、建築学科、建築工学科の改組で設置)→ 総合工学科デザインコースに受け継がれている。その他にも旧画像科学科や工学部全学科による造形教育カリキュラムなど、随所に工芸学校の流れを汲む。
東京高等工芸学校(東京工業専門学校)のテクノロジー部門は現在の東京工業大学の存した場所である港区芝浦(JR田町駅前)の東京工業大学附属科学技術高等学校の敷地内に開校され、同地に「千葉大学工学部発祥の地」と刻まれた碑が建立されている。この流れは現在まで国内の自動車メーカーや電機メーカーなどの企業のデザイン部門の責任者および主要スタッフに千葉大学工学部出身者が圧倒的に多いという実績になって現れている(例:黒木靖夫・ソニー取締役副社長・クリエイティブ本部長・ウォークマン開発プロジェクトリーダー、トヨタ自動車平井和平デザイン本部常務役員)。また、戦後に創立のデザイン系および写真(画像)系専門学校の創立者、近年既存の大学に増設された工業デザイン系の学科の教官、その他工業デザイン系の教育関係者などには千葉大学工学部出身者が非常に多く、インテリアプランナーなどの資格制度の制定についても千葉大学工学部が主導的な役割を担っている。
写真・印刷に始まる画像に関する教育、研究の歴史も長く、写真家や映像作家をはじめとして著名な卒業生も多い。画像系の学科は1915年に創設された東京美術学校の写真・製版学科を起源にしており、画像工学科 → 画像科学科および情報画像学科と経て、総合工学科デザインコース情報コミュニケーション教育研究領域と情報工学コースに至り、関連の教育研究が行われている。2005年、旧・天然色工学研究施設(現・環境リモートセンシング研究センター)棟に保管されていた米ウォルト・ディズニー社の初期のアニメーション映画用原画約250点が発見され話題となった。当初、東京国立近代美術館に寄贈された物だったが、当時の源田秀三郎写真工学科教授が教育・研究用に譲り受け、36年間保管されていた。作品の中には、ウォルト・ディズニーが初めてフルカラーアニメーションで製作した『花と木』の原画も含まれていた。発見後、旧・写真工学科の流れを汲む教職員を中心に、工学部や大学本部の支援も得て、修復・整理が進められた。2008年、初期原画は米ウォルト・ディズニー社に返還され、謝意として作品のデジタルコピーと100万ドルが大学に寄贈された。
1923年に設立された旧制千葉医科大学を直接の前身とする。さらに遡ると、創立は1874年の千葉町の共立病院となり、1876年の公立千葉病院の医学教場から医学教育を行ってきた。その後は、県立千葉医学校、高等中学校令の施行に伴い県立千葉医学校が官立に移管されて第一高等中学校医学部、第一高等学校医学部、千葉医学専門学校を経て、1923年に千葉医科大学へと昇格した。第一高等中学校および第一高等学校は現在の東京大学教養学部である。この間1939年5月に臨時附属医学専門部(1944年千葉医科大学附属医学専門部と改称)や1945年には医学部附属医院厚生女学部(のち附属看護学校から看護学部)、1946年には附属腐敗研究所が設置された。
学制により千葉大学医学部改組後は、1951年に医学専門課程が置かれ、1955年に医学進学課程と大学院医学研究科(博士課程)が設置された。1994年には医学専門課程,医学進学課程が廃止され、2001年には大学院医学研究科も、同年4月大学院医学研究院(6研究部門13講座60研究領域)と大学院医学薬学府(4年博士課程3専攻、後期3年博士課程1専攻、修士課程2専攻)へと改組した。これに伴い医学部にあった附属施設も医学研究員や医学薬学府附属施設となる。2005年には修士課程に医科学専攻が増設された。2011年には医学研究院の附属施設(のち大学付属)子どものこころの発達研究センターを母体として、大阪大学・金沢大学・浜松医科大学・千葉大学・福井大学の連合小児発達学研究科に新規参加。同年には大学院医学薬学府の4年博士課程を3専攻から1専攻に改組され、大学院医学研究院は7研究部門13講座から2研究部門7講座に改組された。
千葉大みらい医療基金を設けている[33]。
1890年(明治23年)、第一高等中学校医学部に設置された薬学科を起源とする歴史がある。1949年に新制総合大学として千葉大学が発足した際、千葉医科大学附属薬学専門部を基礎として誕生し現在に至る。1964年に大学院薬学研究科修士課程、1979年に同博士課程併設。
元は亥鼻地区の医学部内にあったが、1966年に西千葉キャンパスへ移転。2001年の大学院医学薬学府の発足に伴い、西千葉キャンパスから亥鼻キャンパスへの再移転計画を開始。2011年に亥鼻キャンパスへ完全移転。
1975年、全国で初めて「看護学部」が設立される(他大学における編成では、医学部内に保健学科や看護学科として設置されている事が大多数を占める)。学部名は全国の国立大学では現在でも唯一である。
1909年、日本で唯一の園芸学系旧制専門学校として設置された千葉県立園芸専門学校が起源である。創立から100年以上の歴史と伝統を持ち、同窓会として戸定会が組織されている。
一般的に、園芸学は農学部の中の学科やコースとして位置づけられるが、園芸学部という名称としての学部は全国の大学で唯一である。
(2016年度まで)
無印は西千葉キャンパス、※印は亥鼻キャンパス、その他の所在地は括弧内に記載する。
21世紀COEプログラムに、4件のプロジェクトが採択された。
グローバルCOEプログラムに、現在2件のプロジェクトが採択されている。
毎年10月末から11月初旬に、千葉大学の各キャンパスで行われている。
千葉大学大学祭実行委員会主催による全学規模の大学祭。例年100以上のテント企画、50以上の部屋企画、ステージ発表やストリートパフォーマンスなど、千葉県内最大級の大学祭となっている。1963年の第1回千葉大祭から途切れることなく続いており、学内のみならず近隣住民の方をはじめとした幅広い年齢層の人々が参加している。
亥鼻キャンパス(医学部・薬学部・看護学部)の大学祭。亥鼻での大学祭は1993年を境になくなってしまっていたが、2003年度に10年振りに復活した[46]。医療関係の学部が集まるキャンパスでの大学祭であるだけに、医療に関わりのある人物をゲストに招いての講演会などの企画が開催されている。
松戸キャンパス(園芸学部)の大学祭。学生が作った野菜や花の販売など、園芸学部の特徴を活かした模擬店や展示などが多い[47]。
柏の葉キャンパス(園芸学部)の大学祭。戸定祭同様、園芸学部の特徴を活かした模擬店や展示などが多い[48]。
千葉大学には大学生協(正式名称:千葉大学生活協同組合)があり、各キャンパスに店舗(食堂や売店も含む)があり、サービスを提供している。また、千葉大学の学生から組織される、学生委員会(正式名称:千葉大学生協学生委員会、略称:JCK)も存在しており、生協の組合員に対して様々な企画やサービスを提供している[53]。
2015年1月13日から23日までの期間、千葉大学生協ライフセンターにて、「単位」という文字の焼き印が押された「単位パン」を108円で販売した。Twitter上では、千葉大学生協公式アカウントの販売予告ツイートが1万人近くにリツイートやお気に入りがされるなど(2015年1月時点)話題になった[54][55]。
千葉大学には学部・学科・研究科毎に以下のような同窓会がある。
さらに、今までにあまり交流のなかった上記の学部同窓会を横にまとめることを目的として、全学の同窓会組織である千葉大学校友会が当時学長の磯野可一による発案で2002年に発足した。校友会SNSとして千葉大学校友会SNS「CURIO」が運営されている[56]。
また、2009年6月11日には、産業経済界ならびにその関連分野において活躍する卒業生を中心に組織される、千葉大学経済人倶楽部「絆」が設立されている[57]。
2006年、ボビー・バレンタインが客員教授に、木場弘子が特命教授に任命された。
2004年度から、主要4キャンパス「西千葉、松戸、柏の葉、亥鼻(附属病院を除く)」において、環境マネジメントシステムの国際規格であるISO14001の認証を取得し、維持してきた。また、2013年12月13日には、日本品質保証機構を通じて、ISO50001の認証登録を取得した。これは、国立大学法人において全国初の認証取得となった。
千葉大学の本部はこのキャンパスにある。開学当初は、教育学部は千葉市市場町に、教育学部分校が千葉県四街道市に、文理学部は千葉市小仲台に、工学部は千葉県松戸市岩瀬に点在していた典型的な蛸足大学であった。1962年に文理学部と教育学部が、1964年に工学部が西千葉キャンパスに移転し現在に至っている。また、1966年から2011年まで薬学部があった(現在でも薬学部百年記念館など一部薬学部の名が残る建物がある)。西千葉キャンパスは太平洋戦争前は陸軍用地であり、戦中・戦後は東京帝国大学第二工学部・生産技術研究所の敷地であった。そのため現在でも西千葉キャンパスの敷地に東京大学生産技術研究所の敷地が大きく食い込んでいる。
戦前から千葉医科大学の敷地であった。薬学部は1960年まで亥鼻地区にあったが、その後1966年に西千葉地区へ移転。 2011年9月に薬学部・薬学研究院が西千葉キャンパスから亥鼻キャンパスへ再び移転した。
園芸学部源流の千葉県立園芸専門学校の設置された東葛飾郡松戸町戸定丘(現・松戸市松戸)は、元々は千葉県立千葉中学校松戸分校(1901年創立、1906年廃止)の校地であった。同校地は、東葛飾郡会議員・山下寅吉が設立した私立松戸中学校に貸与されたが、同校も廃止となった(旧制中等教育学校の一覧 (千葉県)を参照)。この経緯から、千葉県立園芸専門学校には創設当初、私立松戸中学校の在校生を編入するための予科が設置されていた。戸定校地は、後身の千葉県立高等園芸学校・千葉高等園芸学校・千葉農業専門学校に引き継がれ、さらに新制千葉大学園芸学部の松戸キャンパスとなり、現在に至っている。
1884年(明治17年)、最後の水戸藩主である徳川昭武が、松戸の戸定が丘に戸定邸を建てて移り住み、その後、所有していた土地の多くを県立園芸専門学校に売却した歴史的背景から、園芸学部のキャンパスは戸定邸の敷地と隣接している。
2014年10月4日、「クリエイティブ・コミュニティ創成拠点・千葉大学」(平成25年度採択、文部科学省「地(知)の拠点整備事業(大学COC事業)」)の取り組みの一つとして、美浜区の海浜ニュータウンにある、廃校となった「旧高浜第二小学校」跡地に開校。地域の課題解決を図るため、地元住民、自治会、企業およびNPOと連携しながら、教育、研究、地域貢献に関する様々な地域貢献活動を行う活動拠点である。
カッコ内の年月日は協定や覚書を締結した日付。
地域活性化や地方創生をめざした地方自治体や企業などとの産学官連携のため千葉大学コミュニティ・イノベーションオフィス(OCI)を2015年に設立した[60]。
2019年には、下記の協定提携以外に、千葉に縁がある企業8社と「地方創生戦略研究推進プラットフォーム」を創設した。鉄道各社(京成電鉄、小湊鉄道、東日本旅客鉄道千葉支社)とJTB総合研究所、千葉銀行・ちばぎん総合研究所、キッコーマン、米屋が参画している[61]。同年には教育や学生教育を担う地方創生戦略研究教育推進センターを設けた[62]。
2021年4月には学術研究・イノベーション推進機構(IMO)を設置。日本貿易振興機構(ジェトロ)を包括的連携協定を結んでIMO内に産学連携ジェトロデスクを置き、食や医療・健康分野などでの国際的な産学連携、千葉大発スタートアップ企業の海外進出をめざす[63]。
大学間交流協定は、41ヵ国270校と協定を結んでいる(2022年5月2日時点)[71]。部局間交流協定は、32ヵ国 204校と協定を結んでいる(2022年7月26日時点)[72]。学生交流協定は341校と協定を結んでいる(2023年1月26日時点)[73]。
東京大学生産技術研究所千葉実験所の移転計画により、東京大学側から約9haにわたる跡地購入を打診され、千葉大学側はここに園芸学部移転の検討を進めている。結論は2009年3月までに東京大学側に伝えられる予定だったが、移転により広大な緑地を失いかねないとして地元住民の反対が根強く、松戸市議会も「移転凍結を求める決議」を採択するなど、千葉大学側に移転しないよう要望しているため結論が出なかった[74]。2009年4月15日に行われた移転に反対する住民との懇談会で、千葉大学側から「夏までには東京大学側に回答する」との談話が出ている。2009年7月7日に大学は臨時役員会を開き、東京大学生産技術研究所跡地を購入しないことを正式に決定する。これにより、園芸学部移転は白紙となった。理由として、移転費用の財源確保ができないためとされ、仮に移転した場合、園芸学部用地と環境健康フィールド科学センターの所在する柏の葉キャンパス用地を売却したとしても大幅な赤字が予想されるためとしている[75]。
2010年(平成22年)5月18日、千葉大学園芸学部にて「戸定が丘の歴史と環境を守る松戸市民の会」の設立総会が開催され、移転問題の中心となって活動していた「千葉大学園芸学部の移転に反対する市民の会」から名称が変わり、千葉大学園芸学部周辺地域を指す戸定が丘地域一帯の価値を高める団体となっている[74]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.