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日本の陸軍軍人 (1842-1916) ウィキペディアから
大山 巌(おおやま いわお、旧字体:大山 巖、1842年11月12日〈天保13年10月10日〉- 1916年〈大正5年〉12月10日)は、日本の政治家。陸軍大臣(初代・第3代)、陸軍参謀総長(第4・6代)、大警視(第2代)、文部大臣(臨時兼任)、内大臣(第4代)、元老、貴族院議員を歴任した。称号・階級は元帥陸軍大将。栄典は従一位大勲位功一級公爵。雅号は赫山、瑞岩。字は清海。西郷隆盛・従道兄弟は従兄弟。
大山 巖 | |
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大山巌(日露戦争後) | |
生年月日 |
1842年11月12日 (天保13年10月10日) |
出生地 |
日本、薩摩国鹿児島郡加治屋町 (現:鹿児島県鹿児島市加治屋町) |
没年月日 | 1916年12月10日(74歳没) |
死没地 | 日本、東京府 |
前職 |
武士(薩摩藩士) 陸軍軍人 |
称号 |
従一位 大勲位菊花章頸飾 大勲位菊花大綬章 功一級金鵄勲章 功二級金鵄勲章 勲一等旭日桐花大綬章 勲一等旭日大綬章 勲二等旭日重光章 元帥陸軍大将 公爵 |
配偶者 |
大山沢(先妻) 大山捨松(後妻) |
子女 | 次男:大山柏 |
親族 |
西郷隆盛(従兄) 西郷従道(従弟) 吉井友実(義父) 山川浩(義兄) 山川健次郎(義兄) 山川二葉(義姉) 井田磐楠(娘婿) 大山梓(孫) 大山桂(孫) 渡邉昭(孫) |
第4代 内大臣 | |
在任期間 | 1915年4月23日 - 1916年12月10日 |
天皇 | 大正天皇 |
第3代 陸軍大臣 | |
内閣 |
第2次伊藤内閣 第2次松方内閣 |
在任期間 | 1892年8月8日 - 1896年9月20日 |
内閣 | 黒田内閣 |
在任期間 | 1889年2月16日 - 1889年3月22日 |
初代 陸軍大臣 | |
内閣 |
第1次伊藤内閣 黒田内閣 第1次山縣内閣 第1次松方内閣 |
在任期間 | 1885年12月22日 - 1891年5月17日 |
第2代 大警視 | |
在任期間 | 1879年10月16日 - 1880年2月28日 |
その他の職歴 | |
貴族院議員 (1895年8月5日[1] - 1907年9月20日) (1907年9月21日 - 1916年12月10日) |
薩摩国鹿児島城下加治屋町柿本寺通(下加治屋町方限)に薩摩藩士・大山綱昌(彦八)の次男として生まれた。幼名は岩次郎。通称は弥助。家紋は佐々木源氏大山氏として典型的な「丸に隅立て四つ目」である。
同藩の有馬新七らに影響されて過激派に属したが、文久2年(1862年)の寺田屋騒動では公武合体派によって鎮圧され、大山は帰国謹慎処分となる。薩英戦争に際して謹慎を解かれ、砲台に配属された。ここで西欧列強の軍事力に衝撃を受け、幕臣・江川英龍の塾にて、黒田清隆らとともに砲術を学ぶ。
戊辰戦争では新式銃隊を率いて、鳥羽・伏見の戦いや会津戦争などの各地を転戦。また、12ドイム臼砲や四斤山砲の改良も行った。これら大山の設計した砲は「弥助砲」と称され、後に日露戦争まで長く使用された(弥助は大山の幼名から)[2]。
会津戦争では薩摩藩二番砲兵隊長として従軍していたが、鶴ヶ城攻撃初日、大手門前の北出丸からの篭城側の射撃で攻略に手間どる土佐藩部隊の援護に出動するも、弾丸が右股を内側から貫き負傷し、翌日後送されている。そのため、実際大山が鶴ヶ城で戦ったのは初日のみで砲撃を指揮した訳でもなく、よく言われる「会津若松城に向けて、大砲を雨霰のように撃ちこんで勝利に貢献した」というのも事実ではない。このとき篭城側(会津藩側)は主だった兵がほとんど出撃中で、城内には老幼兵と負傷兵しかおらず、北出丸で戦っていたのは山本八重とわずかな兵たちだった。そのため狙撃者は八重であるとも言われている。この時の会津若松城には、のちに後妻となる山川捨松とその家族が籠城していた。
維新後の明治2年(1869年)、渡欧して普仏戦争などを視察。明治3年(1870年)から6年(1873年)の間はジュネーヴに留学した。留学時、ロシアの革命運動家レフ・メーチニコフと知り合う。メーチニコフは後に東京外国語学校に教師として赴任したが、これは大山の影響によるといわれる。
西南戦争をはじめ、相次ぐ士族反乱を鎮圧した。西南戦争では政府軍の指揮官(攻城砲隊司令官)として、城山に立て籠もった親戚筋の西郷隆盛を相手に戦ったが、大山はこのことを生涯気にして、二度と鹿児島に帰ることはなかった。ただし西郷家とは生涯にわたって親しく、特に西郷従道とは親戚以上の盟友関係にあった。明治13年(1880年)には陸軍卿となり[3]、第1次伊藤内閣において最初の陸軍大臣となった。
1884年2月16日、陸軍卿として、川上操六・桂太郎2大佐らを従え、欧州兵制視察のために横浜を出発し、1885年1月25日、帰国した。
日清戦争(1894年 - 1895年)直前には右目を失明していたという記録が残っているが、日清戦争では陸軍大将として第2軍司令官となった。明治32年(1899年)5月16日には参謀総長に就任し、元帥に列せられた[3]。
1903年6月22日、参謀総長として朝鮮問題解決に関する意見書を内閣に提出した。日露戦争(1904年-1905年)では元帥陸軍大将として満州軍総司令官を務め(1904年6月20日)、日清日露ともに日本の勝利に大きく貢献した。同郷の東郷平八郎と並んで「陸の大山、海の東郷」と言われた。ドイツライプチヒの新聞は、ニコライ2世 (ロシア皇帝)が「猿のような」と評した日本人が単独で大国ロシアに勝てるとは考えられないとして、大山は長年ロシアに苦しめられてきたフィンランド人であると報道した[4]。
大山は陸軍を代表する存在であり、最重要の重臣である元老のメンバーとしても活動した。ただし、大山は陸軍内の意向に従う傾向があり、黒田清隆・西郷従道没後は会議内のバランスをとるためしばらく元老会議のメンバーから外されている[5]。大正4年(1915年)4月23日には内大臣となり[6]、宮中入りした。
大正5年(1916年)、大正天皇に供奉し、福岡県で行われた陸軍特別大演習を参観した帰途に、胃病から倒れ、胆嚢炎を併発。療養中の12月10日に内大臣在任のまま薨去。享年75。病床についてから死ぬ間際まで、永井建子作曲の『雪の進軍』を聞いていたと伝えられている。本人は大変この曲を気に入っていたという。
臨終の枕元には山縣有朋、川村景明、寺内正毅、黒木為楨などが一堂に顔を揃え、まるで元帥府が大山家に引っ越してきたようだったという。大山の死は夏目漱石の死の翌日のことだった。新聞の多くは文豪の死を悼んで多くの紙面を彼に割いたため、明くる日の大山の訃報は他の元老の訃報とは比較にならないほど地味なものだったが、それが大山と他の元老たちの違いを改めて印象づけた。12月17日の国葬では、参列する駐日ロシア大使とは別にロシア大使館付武官のヤホントフ少将が直に大山家を訪れ、「全ロシア陸軍を代表して」弔詞を述べ、ひときわ目立つ花輪を自ら霊前に供えた。かつての敵国の軍人からのこのような丁重な弔意を受けたのは、この大山と後の東郷平八郎の2人だけだった。
大山は青年期まで俊異として際立ったが、壮年以降は自身に茫洋たる風格を身に付けるよう心掛けた。日露戦争の沙河会戦で、苦戦を経験し総司令部の雰囲気が殺気立ったとき、昼寝から起きて来た大山の「児玉さん(児玉源太郎参謀長)、今日もどこかで戦(ゆっさ)がごわすか」の惚けた一言で、部屋の空気がたちまち明るくなり、皆が冷静さを取り戻したという逸話がある。ただし俊異の性格は日露戦争中も残っており、児玉が旅順に第3軍督励のため出張している間は、大山が自ら参謀会議を主宰し、積極的に報告を求め作戦を指揮したという公式記録が残っている。
桂太郎は大山の参謀総長時代の話として、次のような話を述べている。児玉、川上操六、桂が大議論を繰り広げていると、いつも大山が仲裁役となった。三人はそれぞれ理屈を述べるが、結局大山に唯々諾々と従ったという[32]。大隈重信は世事に疎い武人と見られていた大山が新聞や雑誌を手元に置いていた常識人であったと述べている[33]。
明治38年(1905年)12月7日にようやく東京・穏田の私邸に凱旋帰国した大山に対し、息子の柏が「戦争中、総司令官として一番苦しかったことは何か」と問うたのに対し、「若い者を心配させまいとして、知っていることも知らん顔をしなければならなかった」ことを挙げている。「茫洋」か「俊異」かという事項についての大山自身によるひとつの解答との指摘がなされている[34]。
石黒忠悳は、大山と旅をしていると、その土地々々の有名な詩を暗誦していて驚かされたと回想している[35]。稀に和歌を読むこともあったが、てにをはの使い方などを注意されることがあっても気に留めなかったという[36]。
従兄弟の西郷隆盛も大柄で肥満体だったが、大山もなかなかのものであった。その体型と顔の印象から「ガマ」(ガマガエル)というニックネームで呼ばれていた。しかもかなりの美食家であった。息子の大山柏の回想によると40cm以上もある鰻の蒲焼がのった鰻丼をペロリと完食し、ビーフステーキとフランスから輸入した赤ワインが好物で、体重は最も重いときで95kgを越えていたという。その結果晩年は糖尿病に悩まされていた。妻の捨松は友人への手紙で「主人は最近ますます太り、私はますますやせ細っています。」と愚痴をこぼしていたという。ただし、『元帥公爵大山巌』(大山巌伝刊行会編、1935年)では肥満になったのは晩年のことで、当初はどちらかというと痩せ気味であったといい、槍術を得意としたという。
大山の従兄弟である西郷隆盛の肖像画として、イタリア人画家エドアルド・キヨッソーネが描いた肖像画がよく知られているが、西郷は生前に写真や肖像画を残していなかったため、キヨッソーネはこの肖像画を顔の上半分を西郷従道、下半分を大山巌をモデルにして描いたといわれている[37][38][39]。東京・上野にある西郷隆盛像などもキヨッソーネの肖像画を基にしているとされる[37]。
大山は西洋かぶれで非常に西洋文化への憧憬が強く、また造詣も深かった。後藤象二郎、西園寺公望らと共に「ルイ・ヴィトンの日本人顧客となった最初の人」として、ヴィトンの顧客名簿に自筆のサインが残っている。捨松との再婚の時の披露宴招待状は全文がフランス語で書かれた物で人々を仰天させたという。陸軍大臣公邸を出たあとに建てた自邸はドイツの古城をモチーフとした物だった。しかし、見た目の趣味はお世辞にもいいとはいえない代物で、ここを訪ねた捨松の旧友アリス・ベーコンにも酷評されている。巌はこの新居に満足していたが、妻・捨松は「あまりにも洋式生活になれると日本の風俗になじめないのでは」と、自分の経験から子供の将来を心配し、子供部屋は和室にしつらえていた。
明治前期には陸軍卿として谷干城・曾我祐準・鳥尾小弥太・三浦梧楼のいわゆる「四将軍派」との内紛(陸軍紛議)に勝利して陸軍の分裂を阻止し、彼等の拠点と化していた月曜会を解散させた。以後明治中期から大正期にかけて陸軍大臣を長期にわたって務めた。元老としても重きをなし、陸軍では山縣有朋と並ぶ大実力者となったが、政治的野心や権力欲は乏しく、元老の中では西郷従道と並んで総理大臣候補に擬せられることを終始避け続けた。
大隈重信は大山が薩摩人でありながら、郷土の縁故をもって頼み事をされても乗らず、超越した存在として公平に振る舞い、内大臣の適任者であったと回想している[33]。また山縣有朋も私心がなく公平であったと回想している[33]。
大山は日本国歌となる君が代の制定にも関わっているとされることがあるが、曾孫[注釈 1]大山格は巌が国歌制定に関わったという話は大山家に全く伝わっていないとしている[40]。
大山巌自身の談話によれば、明治3年の末、もしくは4年の始めごろ(グレゴリオ暦では1871年)、御親兵における薩摩バンド(薩摩藩軍楽隊)の隊員に対しイギリス公使館護衛隊歩兵大隊の軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントンは、国歌あるいは儀礼音楽的な物があれば、それから指導すると述べた。これを薩摩バンド隊員が当時の藩砲兵隊長であった大山に報告した際、大隊長の野津鎮雄と薩摩藩大参事の大迫貞清も臨席していた。この際に大山は「(イギリス国歌のように)宜しく宝祚の隆昌天壌無窮ならむことを祈り奉れる歌を撰むべきである」と述べ、愛唱歌である薩摩琵琶の「蓬莱山」を提案したところ、野津も大迫も賛成した[41]。大山はその後どのような経緯を経て「君が代」が国歌となったのかは知らないと述べている[41]。ただし「君が代」を提案したのは静岡藩士の乙骨太郎乙であるという説も存在している[42]。
大山が生前に建設した本邸は大正12年(1923年)の関東大震災により崩壊した。その後大山家は、東京・表参道(穏田一丁目=当時)[注釈 2]に広大な私邸を持っていたが、太平洋戦争(大東亜戦争)末期の昭和20年(1945年)5月の東京大空襲で焼失した。その際アメリカ軍は大山邸などを目標にしていたといわれる。
また本邸の他に静岡県沼津市[注釈 3]、栃木県那須(当時の西那須野村、後の那須塩原市)に別荘を所有していた。このうち那須にあった別邸は、後に大山記念洋館(大山別邸)として県指定文化財となっており、県立那須拓陽高等学校が管理している[43]。那須では農場も持っており[注釈 4]、暇があれば山仕事に従事していたという[44]。
現在、大山の騎馬姿の銅像が九段坂上に存在している。千代田区観光協会の解説によれば、この像は新海竹太郎の作によるもので、大正8年(1919年)11月3日に国会前庭北地区洋式庭園に建てられていたといわれているが、その後経緯は不明ながらも現在の位置に移設されたとしている[45]。一方で、巌の曾孫で歴史ライターの大山格は、公刊伝記『元帥公爵大山巌』や二反長半の『大山元帥』[46]を例示し、銅像は当初三宅坂の陸軍参謀本部の構内にあったとしている[47]。大山格によれば、銅像はその後東條内閣期に金属供出され三宅坂から撤去されたが、戦後になって上野の東京芸術大学構内で横倒しとなって放置されていたところを発見され、昭和39年(1964年)5月17日に現在の地に再建された[47]。巌の子である大山柏は著書『大山元帥と雪の進軍』において、再建に協力した人々に感謝の辞を述べている[47]。
栃木県那須塩原市にある大山の墓所参道にはモミジ・ヒノキの並木が整備されており、秋には紅葉のトンネルのような景観となる[48][49]。参道の設計は山本直三郎によるもので[49]、当初はモミジと交互に桜も植えられていたが、桜は枯れてしまったため伐採され残っていない[49]。
明治39年に日露戦争の功を称えて、三島中洲により赤城神社 (新宿区)に巨大な石碑が建立されたが、平成22年、同神社のマンション建設に伴う建て直し時に撤去された[50][51]。
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