大洪水時代
スウェーデン軍の侵入による17世紀中盤のポーランドの大混乱 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
ポーランドの歴史において大洪水(だいこうずい、ポーランド語: Potop〈ポトプ〉)またはスウェーデン大洪水(Potop szwedzki〈ポートプ・シュフェツキ〉、リトアニア語: Švedų tvanas)は、17世紀中盤のスウェーデン軍の侵入に始まるポーランド・リトアニア国家における被害と荒廃を指す[1][2][3]。広義ではフメリニツキーの乱(1648年 - 1657年)、ロシア・ポーランド戦争(1654年 - 1667年)、アンドルソヴォ条約(1667年)、北方戦争(1654年 - 1660年)の期間に用い[4]、狭義ではスウェーデンがポーランド・リトアニア国家を侵略し占拠した北方戦争(1654年 - 1660年)のみに用いる。ポーランド史で言う「大洪水」はスウェーデン史では「北方戦争」と呼ぶ。
大洪水 | |||||||
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スウェーデン、モスクワ・ロシア、ブランデンブルク、フメリニツキー麾下のコサックによってフメリニツキーの反乱で占領された共和国 | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
ポーランド・リトアニア共和国 |
スウェーデン王国 | ||||||
指揮官 | |||||||
ポーランド王ヤン2世カジミェシュ |
スウェーデン王カール10世グスタフ | ||||||
戦力 | |||||||
50,000人(ポーランド・リトアニア) 17,000人(ハプスブルク君主国) 2,000人(クリミア・ハン国) |
40,000人(スウェーデン) 60,000人(ロシア) 16,000人(ブランデンブルク) 12,000人(トランシルヴァニア) 10,000人(モルダヴィアおよびワラキア) | ||||||
被害者数 | |||||||
規模甚大 | 不明 |
ポーランドにおいて大洪水(ポトプ)はスウェーデン軍の攻撃に始まる17世紀の大混乱を「ノアの箱舟」で有名な大洪水[5]になぞらえ、後世まで記憶された表現である[1]。シェンキェヴィチの歴史小説『大洪水(英語版、ポーランド語版)』(Potop)[6]によって有名になった[2]。
大洪水が起きる前、ポーランド・リトアニア共和国は軍隊を擁して東欧地域に領土を拡大し人口も増加していた。また地理的・歴史的関係からクリミア・ハン国およびオスマン帝国と覇権を巡り300年間争っていた。1558年からのスウェーデンとポーランド間の戦争も300年間に及んだ。争いは18世紀のポーランド分割まで続いた。