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文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験(もんぶしょうしはんがっこうちゅうがっこうこうとうじょがっこうきょういんけんていしけん)は、1884年(明治17年)より1948年(昭和23年)まで行われていた中等教員免許の検定試験である。「文検」(ぶんけん)と略されるほか、「文部省教員検定試験」(もんぶしょうきょういんけんていしけん)、「中等教員検定試験」(ちゅうとうきょういんけんていしけん)と略される場合もある。
試験名称は時代と共に変遷しているが、最も長く続いた正式名称は「文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験」である。文部省が戦前期に実施していた教員検定としては、この他、高等学校教員検定試験(略称「高検」)、実業学校教員検定試験(略称「実検」)があるが、最も歴史が古く規模の大きい試験であった中等教員検定試験についてのみ「文検」と略称されていた。
旧制中等教育学校(中学校、高等女学校、師範学校)の教員資格は、本来高等師範学校卒業者に与えられるものとして制度設計されていたが、中等教育機関の拡充に伴う中等学校教員の必要数の拡大に対し、高等師範卒業者がごく少数のままであったため、この教員養成機関卒業者以外に教員検定による免許授与が行われ、文検がその試験であった。
教員検定は、文検による試験検定の他、無試験検定制度もあり、「指定学校」として帝国大学・高等学校・実業専門学校などの官立高等教育機関卒業者や、「許可学校」として文部大臣の許可を得た公私立学校卒業者に、中等教員免許が与えられていた。
許可学校に対する無試験検定は、明治32年の「公私立学校、外国大学卒業生ノ教員検定ニ関スル規定」(文部省令第25号)により導入されたが、許可学校(哲学館(現東洋大学)、國學院(現國學院大學)、東京専門学校(現早稲田大学)、東京物理学校(現東京理科大学)等)も当初は限られていたため、明治期を通じて、文検合格者が中等教員の中心を占めていた。
1904年(明治37年)の調査では、中学校教員のうち有資格者は61%であったが、有資格者中文検合格者が50%、無試験検定合格者50%(高等師範卒業者16%、帝国大学卒業者12%、その他22%)であった[1]。
指定学校・許可学校卒業者による無試験検定合格者が、中等教員免許取得者の中心を占めるようになり、試験検定による資格付与の量的必要性が薄れた大正後半期以降も「文検」制度が存続した理由としては、
があったとされている[2]。
毎回の受験者が数千人に及び、合格まで複数回受験が当然の難関であったため、受験者・受験雑誌(「教育学術界」「内外教育評論」「文検世界」等)・試験出題者等からなる受験世界が、各教科毎に独自の世界として発達した[3]。
(1908年(明治41年)11月26日 文部省令第32号「教員検定ニ関スル規程」における内容)
統計が残されている第8回(1895年)〜第71回(1939年)の計で、23,395人[4]。毎回の合格率が10%前後の難関であった。
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