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日本のテレビプロデューサー (1937-2011) ウィキペディアから
横澤 彪(よこざわ たけし、1937年〈昭和12年〉12月15日 - 2011年〈平成23年〉1月8日)は、日本のテレビプロデューサー。通称・オジン。
フジテレビのプロデューサーとして活躍し、同局役員待遇ゼネラルプロデューサー[1]、ヴァージンジャパン代表取締役社長兼務を経て、吉本興業東京本社代表、専務取締役東京本部長などを歴任。鎌倉女子大学児童学部教授を経て、晩年はフリーの立場で活動した。
前橋市で出生したが、父が新聞記者であったため転居・転校を繰り返した。出生後すぐに隣の長野県長野市に移り、その後も東京都杉並区、新潟県新潟市、高田市(現在の上越市)、秋田県秋田市、神奈川県横浜市と、平均2年半に1回のペースで移り住んだ。どこへ行っても東京弁を喋る「東京っ子」として異端視され、いじめられるのは日常茶飯事で、これが「ネクラ人間横澤彪」のルーツとなった。転校が多かったため小学生時代は友達を作らない主義で、すぐ別れが来る悲しさが嫌で人を避けて映画やラジオ番組に没頭していたという[2]。
自身「郷里はどちらですか」という質問が一番苦手と言い、「郷里はありません」と答えることもあり、「父は岩手、母は静岡です」と加えるとき、「群馬県の前橋生まれです」と言って済ませるとき、丁寧にすべて説明するときとあり、いずれも説明は苦痛と話しており[3][4]、いわば「多国籍」と述べたこともある[2]。
神奈川県立横浜翠嵐高等学校から千葉県立千葉高等学校に編入学。その後、浪人をし東京大学文学部社会学科に入学したが、留年したため入学以来の学友と卒業式に出席した経験がない。1962年に同大学を卒業した。
大学時代の友人の誘いでフジテレビに入社。最初に配属されていたのが制作現場でなかったらすぐ退社していたかもしれなかったという[2]。同期入社に元同社社長の村上光一、元アナウンサーの松本みどりがいる。横澤自身必ずしもフジサンケイグループや鹿内信隆の思考に共鳴したわけではなく、面接で安保条約について聞かれた際には「何で自分の思いと違う事を答えなければならないのか。」と思ったと述べている他、入社式で鹿内信隆の挨拶に立腹し退席しかけたと著書で述べている。
若手時代には、労働組合運動に関わったことが当時フジテレビ社長の鹿内信隆(フジサンケイグループ議長)の逆鱗に触れ、1970年に産経新聞出版局に出向させられるなど辛酸をなめたが、この時代、同じ業界の光文社の神吉晴夫から「既成概念にとらわれない」ということを学ぶ。フジテレビ復帰後の1974年に『ママとあそぼう!ピンポンパン』で初めてプロデューサーを経験し、1980年に『THE MANZAI』で頭角を現した。
THE MANZAIを皮切りに『らくごin六本木』、『スター千一夜』、『笑ってる場合ですよ!』、『森田一義アワー 笑っていいとも!』、『オレたちひょうきん族』などを手掛け、1年先輩の日枝久や、信隆の長男でフジサンケイグループ議長に就任していた鹿内春雄らと共に、視聴率低下で苦境に立たされていたフジテレビの立て直しが採られ、同時にビッグ3ことタモリ、ビートたけし、明石家さんまをスターダムへと押し上げることに一役も買った。
『オレたちひょうきん族』では、「ひょうきん懺悔室」のコーナーに神父役として自ら番組に出演していた[5]。『ひょうきん族』では、TBSテレビで裏番組として放送されていた『8時だョ!全員集合』を意識した数々の演出を行った。コントのはしばしで『全員集合』の名前を出し、揚げ句の果てには『全員集合』のオープニングテーマを流しながら「ひょうきん族がなければね」「わしもそう思う」というパロディCMを作るほどであった。『ひょうきん族』、『笑っていいとも!』などの担当番組で、「ひょうきんディレクターズ」(三宅恵介・佐藤義和・荻野繁・山縣慎司・永峰明)に代表される番組スタッフを出演させ、それまではテレビ局が積極的に番組出演させることが無かった女性アナウンサーをコントの中に起用し、当時タブー視されていた楽屋落ちを寸劇の中に取り込み、番組のテーマソングや劇中歌に松任谷由実、山下達郎等のニューミュージックの歌手の楽曲を起用し、森田一義アワー 笑っていいとも!では、小説家の田中康夫や元NHKプロデューサーの、和田勉等文化人タレントやオスマン・サンコンやデーブ・スペクター等の外国人タレントを起用するなど、当時としては画期的で、現在まで受け継がれているバラエティ番組の手法を多く開発した。
1987年には、『FNS27時間テレビ』の第一弾となる『FNSスーパースペシャル1億人のテレビ夢列島』を立ち上げ、ゼネラルプロデューサーを務める。同年9月を以って自身がプロデューサーを務めていたレギュラー番組を全て降板してひょうきんディレクターズに引き継ぎ、『ひょうきん族』は三宅、『笑っていいとも!』は佐藤と荻野、『いただきます』は山縣がそれぞれ後任のプロデューサーとして就任した。1989年には『テレビ夢列島』第3回総合プロデューサーを、1992年と1993年には『平成教育テレビ』でエグゼクティブプロデューサーを務めた。また、1993年には同番組の「全国一斉公開模擬試験」に、フジテレビの生徒役で挑戦した。
役員待遇編成局ゼネラルプロデューサーに昇進したかたわら、ヴァージンジャパン[6]社長も兼任したが、1995年3月にフジテレビを退社した。定年を待たない退社となったが、人間に定年があるのがおかしいと思っており、定年という概念があってはならないとも思っていたと話している[2]。
1995年1月17日にフジテレビ主催の横澤の送別会が行われたが、阪神・淡路大震災による交通機関の運休のため、横澤が出席出来ないアクシデントに見舞われた[7][8][9]。
フジテレビ退社後は吉本興業に移り、東京支社長や専務取締役を歴任した。フジテレビ退社から吉本興業への転職に関しては、日本テレビ『スーパーテレビ 情報最前線』が密着取材の模様を放送した。吉本には当初、長く在籍するつもりはなかったが、後に社長となる林裕章に懇願され、長期にわたり在籍した[10]。
2005年に吉本興業相談役を退任し、翌2006年にインターネットサイトJ-CASTでコラム『横澤彪のチャンネルGメン69』の連載を開始した。『Gメン69』では、古巣のフジテレビや吉本興業に対しても歯に衣着せぬ主張を展開。2007年には悪性リンパ腫の闘病を告白し、話題となった。
2011年1月8日、肺炎のため東京都内の病院で死去[11]。73歳没。1月13日に通夜、翌14日に告別式が東京都大田区内の池上本門寺で営まれた。告別式には片岡鶴太郎、山田邦子、栗原小巻、山﨑努など約600人が参列し、品川区の桐ヶ谷斎場で荼毘に付された。戒名は富岳院衆楽日彪居士[12]。横澤の起用によってスターダムにのし上がったタモリは、通夜・告別式には参列しなかったが、後に横澤の自宅を弔問している。
フジテレビに限らず、テレビ局の制作スタッフはいくつかの班に分かれて番組を制作する。
かつての部下だった石田弘率いる「石田班」や、後輩の疋田拓率いる「疋田班」とは仲が悪く、部下の王東順率いる「王班」とも一線を画していた。横澤班や王班が担当していた番組の収録中には、石田がおニャン子クラブやその派生ユニットおよびメンバーのソロ活動の楽曲のランキングの扱いから敬遠していた『ザ・ベストテン』(TBSテレビ)に対して追っかけ中継の立ち入りを許可する等、同番組に友好的な対応を取っていた。
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