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日本の江戸時代の武士 ウィキペディアから
河井 継之助(かわい つぎのすけ、正字体:繼之助、文政10年1月1日(1827年1月27日) - 慶応4年8月16日(1868年10月1日))は、江戸時代末期(幕末)の武士。越後長岡藩牧野家の家臣。「継之助」は幼名・通称で、読みは郷里の新潟県長岡市にある河井継之助記念館は「つぎのすけ」[1]とするが、死没地である福島県只見町の同名施設は「つぐのすけ」としている[2]。諱は秋義(あきよし)。号は蒼龍窟。禄高は120石。妻は「すが」。
河井家の先祖は、近江膳所藩本多氏の家臣だったという説と、蒲原郡河井村出身の地侍という2つの説がある。本多氏家臣説では膳所藩主の娘が初代越後長岡藩主・牧野忠成の嫡子・光成(藩主になる前に死去)へ嫁ぐにあたり、河井清左衛門と忠右衛門の兄弟が長岡へ帯同した。そして兄に40石、弟に25石が与えられ、そのまま牧野家の新参家臣となった。はじめに兄・清左衛門の家系は、その惣領の義左衛門が近習・目付と班を進め大組入りした。戊辰戦争で銃卒隊長であった河井平吉は、清左衛門の分家筋に当たる。
弟の忠右衛門は初め祐筆役となり、その後に郡奉行となった。この間に加増が2回あり、大組入りして100石となり、河井金太夫家と呼ばれた。継之助の河井家は、この忠右衛門(河井金太夫家)の次男・代右衛門信堅が新知30俵2人扶持を与えられ、宝永4年(1707年)に中小姓として召し出されたことにより別家となったものである。つまり河井家には、清左衛門を初代とする本家(50石)、忠右衛門を初代とする分家(100石、のちに20石加増)、信堅を初代とする分家(120石)があった。河井継之助の祖である信堅は、当初30俵2人扶持であった。その後、勘定頭、新潟町奉行を歴任し物頭格にもなり、禄高は140石となった。そして、そのうち120石の相続が認められ、120石取りの家となったと推察される。ちなみに信堅が郡奉行であったことは藩政史料からは確認できない。3代目の代右衛門秋恒も、信堅と同じ役職を歴任した。継之助の父で郡奉行を務めた4代目の代右衛門秋紀のとき、何らかの事情で20石減らされ120石となったと『河井継之助傳』にあるが、これは足高の喪失であって禄高そのものが減知されたものではないと思われる。ちなみにこの秋紀は風流人であったようで、良寛とも親交があった。
以上のように、家中における信堅系の河井家の位置は能力評価の高い役方(民政・財政)の要職を担当する中堅どころの家柄であったといえる。また他の河井家よりも立身したことで、河井諸家の中でも優位にあったと思われる。こうした河井家の立場は藩内や国内の情勢不安の中、継之助が慶応元年(1865年)に郡奉行に抜擢されて藩政改革を主導し、その後、役職を重ねるとともに藩の実権者となっていくこととなった素地であったといえる。継之助の祖父までの新潟町奉行の就任期間については「新潟町奉行#天保7年までの歴代新潟町奉行」を参照。
なお、河井家を「奉行格」の家柄であると説明するものがあるが、これは誤りである。まず第1に、長岡藩の家格に「奉行格」という家格は存在しなかった。そして第2に、歴史学上は地方(ぢがた)の奉行職と呼ぶこともある町奉行や郡奉行などとは別に長岡藩では、家老を補佐する役職として「奉行職(御奉行)」が存在し、藩政全般に重きをなし、時として加判の列(最広義の老職)にもなった。
継之助は中老となる前、公用人・郡奉行・町奉行兼帯となった後に「御奉行格加判」に就任している。この「奉行格」に河井家で登用されたのは、継之助が初であった。したがって、河井家を奉行級の家柄であったとするのも誤りである。加えて奉行と奉行格を混同する場合もあるが、厳密にいえば奉行格は「奉行同格」(奉行と同等の格式)を指し、奉行本職に就任したわけでない。
ちなみに『長岡市史』では町奉行は番頭兼務が原則なので、町奉行兼帯になった時点で継之助は番頭に就任した可能性が高い[要出典]。
文政10年(1827年)、長岡城下の長町で代右衛門秋紀と貞との長男として生まれる。幼少の頃は気性が激しく腕白者で、負けず嫌いな性格であったといわれている。12、3歳の頃、それぞれに師匠をつけられて剣術や馬術などの武芸を学んだが師匠の教える流儀や作法に従わないどころか口答えし自分勝手にやったため、ついには師匠から始末に負えないと厄介払いされるほどであった。しかし、読書好きで、好きな本があると一文一文を掘るように書き写したと言われている。その後、藩校の崇徳館で儒学を学び始め、その際、都講の高野松陰の影響で陽明学に傾倒していった。
天保13年(1842年)に元服、秋義を名乗る。信堅系の河井家の当主は元服すると代々通称として「代右衛門」を世襲したが、河井継之助秋義は元服後も幼名である「継之助」を通称として用いた。17歳の時、継之助は鶏を裂いて王陽明を祀り、補国を任とすべきこと、すなわち藩を支える名臣になることを誓う。その翌年、城下の火災により継之助の家宅も焼失したため、現在跡地のある家に移り住む。
嘉永3年(1850年)に梛野嘉兵衛(250石、側用人)の妹・すがと結婚する。なお、梛野氏は安政の藩政改革を主導した村松忠次右衛門の母方であり、『武鑑』でも藩主嗣子・牧野忠訓の附役に梛野弥五左衛門が見えるので、姉婿・佐野与惣左衛門(武鑑で附役になっているのが確認できる)同様にこの藩主側近一族との縁組が継之助の出世にプラスに作用した可能性は高い。
継之助は青年時代から主に日本・中国(宋・明時代)の儒学者・哲学者の語録や明・清時代の奏議書の類の本をよく写本した。また、読書法についても後に鵜殿団次郎とそのあり方について議論した際、多読を良しとする鵜殿に対し、継之助は精読を主張したという。こうした書物に対する姿勢は後の遊学の際でも一貫していた。
さらにこの時期には小山良運(130石)や花輪馨之進(200石、のち奉行本役)、三間市之進(350石、のち奉行役加判)、三島億二郎(37石、藩校助教授、のち目付格、代官)といった同年代の若手藩士らと日夜意見を戦わせ、意気を通じ合わせていた。このグループは周囲からは「桶党」(水を漏らさぬほど結束力が固いという意)と呼ばれていたらしく、慶応期藩政改革の際には村松忠治右衛門(70石、安政期藩政改革の主導者、のち奉行格、勘定頭・郡奉行ほか諸奉行兼帯。継之助の妻の縁者)や植田十兵衛(200石、のち郡奉行・町奉行兼帯)らとともに次第に要職に就き、継之助を中心とする改革推進派の主要メンバーとなった。
嘉永5年(1852年)の秋頃、継之助は江戸に遊学する。江戸には既に三島や小林虎三郎らが佐久間象山の許に遊学に来ていた。継之助はまず、三島を仲介に古賀謹一郎(茶渓)の紹介で斎藤拙堂の門をくぐった。また、同じ頃に象山の塾にも通い始めた。継之助は遊学中、三島や小林らと江戸の町を見物したり酒を飲んだりと自適の日々を送った。当時、大坂の適塾にいた小山は小林の手紙でそんな3人の様子を知り、たいへん羨ましいと長岡の知人への手紙の中で述べている。
翌嘉永6年(1853年)、継之助は斎藤の許を去り、古賀の久敬舎に入門し、寄宿する。斎藤の塾を去ったのは、そこには自分を高める会心の書がなかったためと言われる。一方、象山の塾には依然通い続け、砲術の教えを受けていた。ただし継之助は象山の人柄は好きではなかったらしく、後に同藩の者に「佐久間先生は豪いことは豪いが、どうも腹に面白くないところがある」と語ったという。久敬舎では講義はほとんど受けず、書庫で巡りあった『李忠定公集』を読みつつ、それを写本することに日々を費やした。そのため継之助は、門人たちからは「偏狭・固陋」な人物と思われた。同年、ペリー率いるアメリカ海軍艦隊が日本に現れると(黒船来航)、当時の江戸幕府老中であった藩主・牧野忠雅は三島を黒船の偵察に派遣する一方、家臣らに対し広く意見を求めた。それを受け、継之助、三島、小林らはそれぞれ建言書を提出する。ともに藩政改革を記した内容だったようだが、三島と小林はその内容が忠雅の不評を買い帰藩を命じられた。反対に継之助の建言は藩主の目に留まることとなり、新知30石を与えられて御目付格評定方随役に任命され、帰藩を命じられた。そのため、『李忠定公集』全巻を写し終え題字を認めてもらうと、継之助は久敬舎を去り長岡へ戻った。
藩政の刷新を企図して帰藩した継之助であったが、藩主独断での人事に反感を持った家老など藩上層部の風当たりが強く、結局何もできないまま2ヶ月ほどで辞職する。この固陋な有様に憤慨した継之助は藩主に対し門閥弾劾の建言書を提出する。その後、特に何もないままの日々を過ごす。安政2年(1855年)、忠雅の世子・牧野忠恭のお国入りにあたり、継之助は経史の講義を行うよう命じられる。しかし継之助は「己は講釈などをするために学問をしたのではない、講釈をさせる入用があるなら講釈師に頼むが良い」とこれを跳ね除けたため、藩庁からお叱りを受ける。この間、射撃の練習に打ち込んでその腕を上げる一方、三島とともに奥羽へ遊歴した。安政5年(1858年)、家督を継いで外様吟味役になると早速、宮路村での争いを解決へと導いた。
安政6年(1859年)正月、継之助は再び江戸に遊学し、古賀謹一郎の久敬舎に入る。そしてさらなる経世済民の学を修めるため、備中松山藩の山田方谷の教えを請いに西国遊学の旅に出る。初めこそ、農民出身の山田を「安五郎」と通称で手紙に認めるなどの尊大な態度に出ていた継之助も、山田の言行が一致した振る舞いと彼が進めた藩政改革の成果を見て、すぐに態度を改めて深く心酔するようになる。山田の許で修養に励む間、佐賀藩、長崎、熊本藩も訪れ、知見を広める。藩政に忙しい山田に代わり後に墓碑を書くことになる三島中州が相手をする。翌年3月、松山を去って江戸へ戻り、しばらく横浜に滞在した後、長岡へ帰郷した。山田方谷に譲ってもらった『王文成公全集』に書いてもらった忠告を、佐久間象山と同じく結局守れなかった。
文久2年(1862年)、藩主・牧野忠恭が京都所司代になると継之助も京都詰を命じられ、翌文久3年(1863年)の正月に上洛する。継之助は忠恭に所司代辞任を勧めるも、忠恭はこれを承知しなかった。しかし、4月下旬に欧米に対する攘夷実行が決定されたのをきっかけに忠恭も辞意を決し、6月に認められると忠恭は江戸に戻る。
だが9月、忠恭は今度は老中に任命される。そして継之助は公用人に命じられ江戸詰となると、忠恭に老中辞任を進言する。その際、辞任撤回の説得に訪れた分家の常陸笠間藩主・牧野貞明を罵倒してしまい、結局この責任をとる形で公用人を辞し、帰藩した。
しかしその後、慶応元年(1865年)に外様吟味役に再任されると、その3ヶ月後に郡奉行に就任する。これ以後、継之助は藩政改革に着手する。その後、町奉行兼帯、奉行格加判とどんどん出世し、その間、風紀粛正や農政改革、灌漑工事、兵制改革などを実施した。
藩士の知行を100石より少ない者は加増し、100石より多い者は減知することで門閥を平均化すると共に、軍制上の中央集権を目指した改革を藩主の信任の下で継之助は断行した。
慶応3年(1867年)10月、徳川慶喜が大政奉還を行うと、中央政局の動きは一気に加速する。この慶喜の動きに対し、討幕派は12月9日(1868年1月3日)に王政復古の大号令を発し、幕府などを廃止する。一方、長岡藩では藩主・忠恭は隠居して牧野忠訓が藩主となっていたが、大政奉還の報せを受けると忠訓や継之助らは公武周旋のために上洛する。
そして継之助は藩主の名代として議定所へ出頭し、徳川氏を擁護する内容の建言書を提出する。しかし、それに対する反応は何もなかった。翌慶応4年1月3日(1月27日)、鳥羽・伏見において会津藩・桑名藩を中心とする旧幕府軍と新政府軍との間で戦闘が開始され、戊辰戦争が始まる(鳥羽・伏見の戦い)。大坂を警衛していた継之助らは、旧幕府軍の敗退と慶喜が江戸へ密かに退いたのを知ると急ぎ江戸へ戻る。
藩主らを先に長岡へ帰させると、継之助は江戸藩邸を処分して家宝などを全て売却。その金で、相場が暴落した米を買って蝦夷地で開港されていた箱館へ運んで売り、また新潟との為替差益にも目をつけ軍資金を増やした。同時にファブルブラント商会(C.&J.FAVRE BRANDT)、スネル兄弟などからアームストロング砲、ガトリング砲、エンフィールド銃、スナイドル銃、シャープス銃(軍用カービン)などの最新兵器を購入し、海路長岡へ帰還した。特にガトリング砲は当時の日本には3門しか存在せずそのうち2門を長岡藩が所持していた[3][4][5][6][7][8][9]。
新政府軍が陸奥会津藩征討のため長岡にほど近い小千谷(現・新潟県小千谷市)に迫ると、世襲家老の首座・稲垣平助、先法家・槙(真木)内蔵介、以下上級家臣の安田鉚蔵、九里磯太夫、武作之丞、小島久馬衛門、花輪彦左衛門、毛利磯右衛門などが恭順・非戦を主張した。
こうした中で継之助は恭順派の拠点となっていた藩校・崇徳館に腹心の鬼頭六左衛門に小隊を与えて監視させ、その動きを封じ込めた。その後に抗戦・恭順を巡る藩論を抑えてモンロー主義の影響を受けた獨立特行を主張し、新政府軍との談判へ臨み、旧幕府軍と新政府軍の調停を行う事を申し出ることとした[注 1]。
5月2日(6月21日)、新政府軍監だった土佐藩の岩村精一郎は恭順工作を仲介した尾張藩の紹介で長岡藩の継之助と小千谷の慈眼寺において会談した[10]。会談において継之助は新政府軍を批判し、長岡領内への進入と戦闘の拒否を通告した。
長岡藩は表高7万4,000石の小藩であったが、内高は約14万石と実態は中藩であった。長岡藩では藩論が必ずしも統一されていなかったが、官軍に恭順を主張していた世襲家老首座の稲垣茂光は交戦状態となる直前に出奔。世襲家老次座の山本義路や着座家の三間氏は終始継之助に協力した。先法三家(槙(真木)氏・能勢氏・疋田氏)は、官軍への開戦前には恭順を主張するも開戦決定後は藩命に従った[注 2]。上級家臣のこうした動きと藩主の絶対的信頼の下に、継之助は名実共に開戦の全権を掌握した。継之助の開戦時の序列は家老上席、軍事総督であった。
北越戊辰戦争において長岡藩兵は近代的な訓練と最新兵器の武装を施されており、継之助の巧みな用兵により開戦当初では新政府軍の大軍と互角に戦った。しかし絶対的な兵力に劣る長岡軍は徐々に押され始め、5月19日(7月8日)に長岡城を奪われた。この直後から長岡藩が命じた人夫調達の撤回と米の払下を求めて大規模な世直し一揆が発生する。5月20日(7月9日)に発生した吉田村・太田村(現在の燕市)を始め、巻村など領内全域に広がり一時は7,000人規模となった。長岡藩は新政府軍と戦っていた部隊を吉田・巻方面に派遣して6月26日(8月14日)までに全て鎮圧した。これによって長岡藩の兵力が減少したのみならず、人夫動員も困難となり継之助の長岡城奪還計画は大幅に遅れて、結果的に新政府軍に有利に働くことになる。継之助の命運を尽かせたのは実は新政府軍の兵器ではなく、領民の一揆による抵抗による国力と作戦好機の逸失であった。また、多くの領民が処刑され長岡での継之助の評価を悪化させた一因にもなった(『新潟県史』通史編6)。
その後、6月2日(7月21日)、今町の戦いを制して逆襲に転じる。7月24日(9月10日)夕刻、敵の意表をつく八丁沖渡沼作戦を実施し、翌日(9月11日)に長岡城を辛くも奪還する。
外山修造の証言によると、奇襲作戦の最中、新町口にて河井継之助は左膝に流れ弾を受け重傷を負ってしまう。『長岡郷土史』によると、新町口ではないところで床机に腰掛けていたところを西軍兵に狙撃された。指揮官である継之助の負傷によって長岡藩兵の指揮能力や士気は低下し、また陸路から進軍していた米沢藩兵らも途中敵兵に阻まれ合流に遅れてしまった。これにより、奇襲によって浮き足立った新政府軍を米沢藩とともに猛追撃して大打撃を与えるという作戦は完遂できなかった。一方、城を奪還され一旦後退した新政府軍であったが、すぐさま体勢を立て直し反撃に出る。長岡藩には最早この新政府軍の攻撃に耐えうる余力はなく、4日後の7月29日(9月15日)に長岡城は再び陥落、継之助らは会津へ向けて落ちのびた。
これにより戊辰戦争を通じて最も熾烈を極めたとされる北越戦争は新政府軍の勝利に終わり、以後、戦局は会津戦争へと移っていく。
重傷の継之助は1人で歩けず、会津へ向けて八十里峠を越える際、「八十里 腰抜け武士の 越す峠」という自嘲の句を詠む。
峠を越えて会津藩領に入り、只見村にて休息をとる。継之助はそこで忠恭の依頼で会津若松より治療に来た松本良順の診察を受け、松本が持参してきた牛肉を平らげてみせる。しかし、この時既に継之助の傷は破傷風により手遅れな状態にあった[注 3]。継之助も最期が近づきつつあるのを悟り、花輪らに対し今後は米沢藩ではなく出羽庄内藩と行動を共にすべきことや藩主世子・鋭橘のフランスへの亡命(結局果たされず)など後図を託した。また外山修造には武士に取り上げようと考えていたが、近く身分制度がなくなる時代が来るからこれからは商人になれと伝えた。後に外山はこの継之助の言に従って商人となり、日本の発展を担った有力実業家の1人として活躍した。
継之助は松本の勧めもあり、会津若松へ向けて只見村を出発し、8月12日(9月27日)に塩沢村(現・福島県只見町)に到着する。塩沢村では不安定な容態が続いた。15日(30日)の夜、継之助は従僕の松蔵を呼ぶと、ねぎらいの言葉をかけるとともに火葬の仕度を命じた。翌16日(10月1日)の昼頃、継之助は談笑した後、ひと眠りつくとそのまま危篤状態に陥り、同日午後8時頃、只見・塩沢村の医師矢澤宗益宅にて死去した。享年41。なお、継之助終焉の場所である矢澤家は昭和36年(1961年)、只見川電源開発に伴いダム湖に水没する地にあったため、現在は福島県只見町の河井継之助記念館内に移築されている。
継之助の葬儀は会津城下、建福寺にて行われた。遺骨は新政府軍の会津城下侵入時に墓があばかれることを慮り、松蔵によって会津のとある松の木の下(現:会津若松市建福寺前 小田山中腹)に埋葬される。実際、新政府軍は城下の墓所に建てられた継之助の仮墓から遺骨を持ち出そうとしたが、中身が砂石であったため継之助の生存を疑い恐怖したという。現在は臨済宗妙心寺派大寶山建福寺管理の下「河井継之助一時埋葬地」として同所に墓碑(「故長岡藩総督河井継之助君埋骨遺跡」の碑)が残されている。また、只見町塩沢の医王寺にも村人が荼毘で残った細骨を葬った墓がある。
戊辰戦争後、松蔵は遺骨を掘り出すと長岡の河井家へ送り届けた。そして遺骨は、現在河井家の墓がある栄凉寺に再び埋葬された。しかしその後、継之助の墓石は彼の藩政改革に反発する者や長岡を荒廃させた張本人として恨む者たちによって、何度も倒されたと伝わる。このように、戦争責任者として継之助を非難する言動は、継之助の人物を賞賛する声がある一方で、明治以後、現在に至るまで続いている。一方河井家は、主導者であった継之助が既に戦没していたため、政府より死一等を減ずる代わりに家名断絶という処分を受けた。忠恭はこれを憂い、森源三(継之助の養女の夫)に新知100石を与えて継之助の家族を扶養させた。
明治16年(1883年)に河井家は再興を許され、森源三の子・茂樹を養嗣子として迎え入れたのであった。
河井継之助記念館が只見では前述のダム水没に伴う移転に合わせて1973年に開館したのに対して、長岡ではその33年後の2006年であった。長岡で開館時から館長を務める郷土史家の稲川明雄は、継之助嫌いだった自分を館長にしたのは、継之助に批判的な市民からの批判を抑えることを当時の市長が意図した可能性があると推測している[2]。
さほど背は高くなかったが鳶色の鋭い目を持ち、声がよかったという。徹底的な実利主義で、武士の必須である剣術に関してもいざ事あるときにすぐに役に立てばよいので型や流儀などどうでもよいという考え方であった。しかし読書に関しては別で、好きな本があるとその一文一文を彫るように書き写していたという。物事の本質を素早く見抜く才にすぐれ、徳川幕府の崩壊を早くから予見していた。藩命に度々背き、様々叱咤されたが、本人は当然の風にしていた。河井家は本来ならば家老になどなれない家柄であったが既に若い頃から藩の家老らの凡庸さを見て、結果的に自分が家老になるしかないと公言してはばからなかったという。
遊郭の禁止令を施行した際はそれまで遊郭の常連であった継之助のことを揶揄し「かわいかわい(河井)と今朝まで思い 今は愛想もつきのすけ(継之助)」と詠われている。また、『塵壷』という名前で知られる旅日記を残した。
長岡城落城(慶応4年5月19日)後、最初の奥羽越列藩同盟軍の軍議(5月22日と23日:会津藩、米沢藩、長岡藩、桑名藩、上山藩、村上藩、村松藩の各藩重役が出席)が行われた際、河井は長岡城落城の際に村松藩は尽力せず、その行動は奇怪であると2日に渡って村松藩の代表(田中勘解由 等)を執拗に責めたことから、責められた田中勘解由が軍議の席上で自刃(自らの喉を刺す)に及ぶ事件が発生した[14]。幸い急所を外れて命は落とさなかったが、この席上にいた米沢藩の甘糟継成は日記に、河井の態度・発言について「傍らに人がなきが如し・・言甚切也」と記載している[15]。
明治維新後、長岡の復興に尽力した米百俵で知られる小林虎三郎は親類である。小林の人物像が語られる時においては継之助は好戦的な人物として描かれることも少なくないが、薩長の横暴を見かね、手紙の中で「かくなる上は開戦もやむなし」と開戦を渋々支持しており、必ずしも好戦的な人物ではなかったことがうかがえる。北越戦争においても、開戦は藩としての自立を確保するための自衛的な意味合いが強かった。
なお河井継之助には上記以外にも長岡市民によって伝承された様々な逸話がある。例えば「北越戦争で両手足を失ったが、果敢に戦った」とか「戦の時は藩士に精力を付けさせるよう、自分の飯を全て分け与えていた」などという話である。「弾除けにするため町人に畳を背負わせて隊列の前方を歩かせた」等の否定ないしは批判的な逸話もある。しかしこれらは史実として検証できる資料が残っていないため信憑性が低く、後世の作り話と思われる(外部リンク参照)。
継之助の行動や人となりを知りうる史料に関しては、下記以外にも刊本・未刊本を問わずあるが、それらは基本的に戊辰戦争前後の長岡藩の動向について記されたものであるので、ここではあえて外した。
今泉鐸次郎著。初版は明治43年(1910年)、博文館。昭和6年(1931年)に目黒書店から増補改版。昭和55年(1980年)および平成8年(1996年)には象山社から増補版の再版が刊行。
河井継之助自筆の旅日記で、現存する唯一の自著。安政6年6月7日(1859年7月6日)から同年12月22日(1860年1月14日)までの西国遊歴中の事を記す。原本は現在、長岡市立中央図書館から長岡市の河井継之助記念館に移管、展示されている。昭和13年(1938年)には新潟県立長岡中学校和同会によって[17]、また昭和49年(1974年)には安藤英男 校注『塵壷:河井継之助日記』<東洋文庫257>(平凡社)として活字化もされている。昭和52年(1977年)には、新潟日報事業社より渡辺秀英校注付き桐箱入りの複製本が、500部限定で製作されている。
※この他で河井継之助に直接関わる史料としては、史談会 編『史談会速記録』全44巻(原書房)に収められている三間正弘や大野右仲らの証言記録がある(記載巻数等は同書総索引を参照)。
この節で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。 |
河井継之助を扱った主な著書を挙げた。幕末期の長岡藩関係の著書やビジネス系雑誌の記事などは含まない。また同一の著者に河井継之助について書かれた複数の著書がある場合には、代表的な一冊のみを挙げた。
河井継之助について考察した主な論文を挙げた。幕末期の長岡藩関係の論文などは含まない。
過去に河井継之助を描いたテレビドラマがいくつか制作されている。
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