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二代目 諸戸 清六(にだいめ もろと せいろく、1888年(明治21年)7月24日[1] - 1969年(昭和44年)12月1日)は、大正・昭和時代の資産家[2]、実業家。旧名は清吾[3]。氏は諸戸氏、家名は諸戸家。 三重農場取締役会長[3][4]。諸戸殖産社長[5][6][7]。諸戸合名代表社員[7]。三菱鉱業、朝鮮無煙炭各監査役[3][4][5]。 三重県桑名で家業の山林経営をつぎ、林産物の生産、加工、販売などをおこなう[8]。
1888年(明治21年)7月24日に三重県に生まれた。初代諸戸清六の四男[3][4][6][9]、諸戸精太の弟、諸戸精文の叔父である[3][4][6]。初代清六と深い親交のあった大隈重信が設立に関わった早稲田中学校に進学したが、彼が18歳の時初代清六が没したため[10]、急遽呼び戻され、次男精太が初代の屋敷を継承し、四男清吾が清六の名を襲名した。
1906年(明治39年)、家督を相続し、前名清吾を改め襲名する[3][4][6]。農業並びに林業を営み[5]、傍ら会社の重役である[3][4][6]。1911年(明治44年)には新居(旧諸戸清六邸、旧諸戸氏庭園、後の六華苑)を着工し、1913年(大正2年)に竣工した。
1918年(大正7年)、三重県最初の育英会である財団法人諸戸育英会を設立した[11]。
鎌倉、日光、沼津に別荘を所有していた。鎌倉の別荘は、1908年(明治41年)、株式仲買人・福島浪蔵の別邸として建築された洋館を、1921年(大正10年)に譲り受けたものである。洋館部分が現存し、鎌倉市指定文化財となっており、「長谷子ども会館(旧諸戸邸)」として公開されている[13]。日光の別荘には重光葵が大戦中、自宅が焼失した後、終戦まで疎開していた。現在は西洋料理「明治の館」というレストランとなっており、2006年(平成18年)に登録有形文化財となっている。また、1923年(大正12年)頃には静岡県沼津市江浦に別荘を新築しているが、現状については分かっていない[10]。
子孫が桑名市に寄贈した「諸戸家文書」の中に日記が含まれており、2019年(令和元年)現在、桑名市博物館が解読を進めている[14]。この日記は本人の自筆ではなく、部下数人が書いたもので、多くは面会記録だといい、益田鈍翁、松方正義、牧野伸顕らの名が見られる[14]。この日記により、釣りが趣味であったことが初めて明らかとなったほか、故郷・桑名への投資に内容を精選していたことなどが判明した[14]。
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