豊臣秀吉
日本の戦国~安土桃山時代の武将、大名、太閤検地運 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、旧字体:豐臣 秀吉)は、戦国時代 - 安土桃山時代の日本の武将、戦国大名、公卿。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人[3][4]。織田信長の後を継いで天下を統一し、近世封建社会の基礎を築いた[5]。官位は従一位、関白、太政大臣、贈正一位。
豊臣秀吉像(狩野光信画) | |
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
生誕 | 天文6年2月6日(ユリウス暦1537年3月17日、先発グレゴリオ暦1537年3月27日)(『関白任官記』、『豊国大明神臨時御祭礼記録』)[1][注釈 1] |
死没 | 慶長3年8月18日(グレゴリオ暦1598年9月18日) |
改名 |
日吉丸? → 木下藤吉郎 → 木下秀吉 → 羽柴秀吉 (本姓) 平秀吉 → 藤原秀吉 → 豊臣秀吉 |
別名 | 渾名:木綿藤吉[注釈 2]、豊太閤、猿、禿げ鼠 |
神号 | 豊国大明神 |
戒名 |
国泰寺殿前太閤相国雲山俊龍大居士 国泰祐松院殿霊山俊龍大居士 |
墓所 |
豊国神社(京都市東山区) 不動院(広島市東区) 高野山奥の院(和歌山県高野町) 国泰寺(広島市西区) |
官位 | 従一位、関白、太政大臣、贈正一位 |
主君 | 松下之綱 → 織田信長 → 秀信→正親町天皇→後陽成天皇 |
氏族 | 木下氏([諸説あり]平姓 あるいは 宇多源氏佐々木流)→ 羽柴氏(平姓 → 藤原姓(猶子)→ 豊臣姓(賜姓)) |
父母 |
父:不明(詳細は出自参照)[通説]木下弥右衛門(竹阿弥、昌吉ほか) 母:大政所(天瑞院、なか[2]) 継父:[通説]竹阿弥、猶父:近衛前久 |
兄弟 | 日秀(三好吉房室)、秀吉、秀長、朝日姫(佐治日向守室 → 副田吉成室 → 徳川家康室) |
妻 |
正室:浅野長勝の養女・高台院 側室:浅井長政の娘・淀殿 他 |
子 |
石松丸、一女、鶴松、秀頼 養子:秀次、秀康、秀俊、秀勝、輝政、長吉、豪姫、菊姫、竹林院、江、小姫、糸姫 他 猶子:八条宮智仁親王、近衛前子 他 |
特記 事項 | 馬印は「金瓢箪」[注釈 3]。「一の谷馬蘭兜」は秀吉の代表的兜とされる。 |
花押 | |
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幼少期については様々な伝説があるものの明確にはなっておらず、木下藤吉郎秀吉として尾張の戦国大名織田信長に仕え、若くして織田家の有力武将となり、羽柴(はしば)に改名した。信長が支配領域を拡張する中で更に功績を上げ、長浜・但馬国・播磨国を領する織田家宿老の一人となった。毛利氏を討つため派遣された中国攻めの最中、信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると、急ぎ和睦して京へと戻り、山崎の戦いで光秀を破った。さらに織田政権の主導権争いに勝利したことで、自らの政権を確立した(豊臣政権)。秀吉は武士として初めて関白となり、豊臣の姓を賜った。朝廷の権威を背景とした惣無事の名のもと各地の戦国大名に臣従を要求し、北条氏を降した小田原征伐により天下統一を果たした。統一後に豊臣政権は太閤検地・刀狩令・石高制などの全国的な政策を推し進め、全国の蔵入地や鉱山収入で巨大な財力を手にした。豊臣政権は聚楽第・方広寺(京の大仏)・伏見城などの大規模建築の造営を行ったほか、秀吉は茶の湯・美術工芸・芸能を愛好し、その発展を促した。秀吉治世下で発展した文化は桃山文化と呼ばれる。
晩年は明の征服を決意して朝鮮に出兵した(文禄・慶長の役)。その最中に実子秀頼が生まれたことで、後継と定めていた甥秀次を排除し、政権の再構築を余儀なくされた。しかしまもなく秀吉は病に倒れ、幼い秀頼を五大老・五奉行に託してこの世を去った。