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日本のテレビバラエティ番組 ウィキペディアから
『進め!電波少年』(すすめ でんぱしょうねん)は、1992年7月5日から1998年1月1日[注 1]まで、日本テレビ系列で毎週日曜 22:30 - 22:55[注 2] (JST) に放送された、日本テレビ制作のバラエティ番組。電波少年シリーズの第1弾に当たる。
進め!電波少年 | |
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ジャンル | バラエティ番組 |
構成 |
小山薫堂、海老克哉 そーたに、都築浩 田中直人、中野俊成 澤井康成、鮫肌文殊 おちまさと 他 |
ディレクター |
〆谷浩斗、香川春太郎 飯山直樹、中西太 横井仁、飯島冬貴 川端基浩、塩野智章 小笠原豪、山下柚樹 似鳥利行、北村英樹 古立善之、篠宮浩司 ほか |
演出 | 土屋敏男(1993年6月以降P兼任) |
出演者 |
松本明子 松村邦洋 ほか(出演者を参照) |
ナレーター | 木村匡也 |
オープニング | 「The Wall~長城~(中国語: The Wall~長城~)」(BEYOND) |
エンディング | テーマ曲を参照 |
製作 | |
チーフ・プロデューサー |
棚次隆 吉川圭三 |
プロデューサー |
篠木為八男 長濱薫、小西寛 土屋敏男 (演出兼務) |
制作 |
THE WORKS NTV映像センター 零CREATE (全て制作協力) |
製作 | 日本テレビ (製作著作) |
放送 | |
放送国・地域 | 日本 |
笑撃的電影箱時代 | |
放送期間 | 1992年7月5日 - 1994年3月27日 |
放送時間 | 日曜 22:30 - 23:26の前半 |
単独番組化から1994年9月[1]まで | |
放送期間 | 1994年4月3日 - 1994年9月25日 |
放送時間 | 日曜 22:30 - 22:58 |
放送分 | 28分 |
1994年10月[1]から番組終了まで | |
放送期間 | 1994年10月2日 - 1998年1月1日 |
放送時間 | 日曜 22:30 - 22:55 |
放送分 | 25分 |
「見たいものを見る、したい事をする、会いたい人に会う」という3つのコンセプト[4]の下、アポなし、突撃、ヒッチハイク、さまざまな無茶に挑戦した、テレビ史上類を見ない伝説的バラエティ番組として幅広く認知されている。およそ5年半におよぶ放送期間中、マフィアから暴力団、スラム街までも番組の題材にし、出演者の生命や番組自体の存続にも関わる危険なロケも多かった。そうした事情から、再放送の際には一部カットされている回や欠番になっている回もある。
CS放送では、CS★日テレにて1996年から2000年9月まで、地上波との同時放送が実施されていた他、2010年3月12日から2017年3月まで日テレプラスでも再放送が行われた(1997年6月15日放送分まで)。さらに同年4月9日に初のDVDの発売、それを記念して同年3月31日深夜(4月1日午前)に約7年振りに放送され、同年7月23日にDVD第2弾が発売、さらに同年9月に第3弾、第4弾と続けて発売した。これらの展開に合わせて、電波少年ホームページも2010年3月29日にリニューアルされた。
当初、『笑撃的電影箱』の第1部としてスタートした本番組は、元々はウッチャンナンチャン主演の映画『七人のおたく』の撮影専念のため休止を余儀なくされた前番組『ウッチャン・ナンチャン with SHA.LA.LA.』のつなぎ番組として、制作局から急遽土屋敏男に「何かやれ」と持ち上がったものであった[5][6]。同番組の出演者のうち、出川哲朗は本番組にもアポなしロケに出演していた他、ウッチャンナンチャンも不定期特番の『電波少年INTERNATIONAL』や『いけ年こい年』にゲスト出演している[注 3]。
日本テレビのとある人物が、1990年前後のある時『ものまね王座決定戦』(フジテレビ)で松本明子と松村邦洋の絡みトークを見た際、「この2人の組み合わせは面白い」と感じたことで、本番組のMCとしてこの両名の起用が決まった[7]。一方で、当時ビッグタレントにお伺いを立て、自分の本当にやりたい企画もすぐに拒否されるテレビ番組作りにうんざりしていた土屋は、「視聴率を取れなくてもいいからそのストレスを全部ぶつけてやろう」と考えたが、前述の通りMCとしての松本と松村の起用は編成ですでに決められており、当時2人を全く知らなかった土屋は「このツーショットなんて誰も見たくないだろう」と、後述の顔だけのCG合成を決めた。
構成作家の小山薫堂によると、テレビがどこまでやれば取材拒否されるかという境目を探る番組として企画されたという。当初の仮タイトルは『やったろうじゃん』。それではなんだからと、構成作家の都築浩が当時争論の的となった中村敦夫の発言(詳細は『中村敦夫の地球発22時』も参照)から『怪傑電波芸者』を提案。しかし、製作局長から「芸者はダメ」とNGが出たことを受け、同じく構成作家のそーたにが『電波将軍』と滑舌悪く言ったところ、土屋らに「電波少年か、いいねえ」と勘違いされ、さらに「少年なら『進め』だろう」ということでタイトルが完成した。この『電波少年』および『進め!電波少年』という名称は、日本テレビ放送網株式会社が所有する商標(商標登録番号第3137022号他)にもなった。
「どうせ2ヵ月だけ」のつもりで放送し、社内的にはひっそりと始まった番組ではあったが、初回の視聴率は12%と好調な滑り出しを見せた。また改編期における海外ロケを中心としたスペシャル『電波少年INTERNATIONAL』や、1997年以降に放送された大晦日特番も多大な人気を獲得。1998年には1月1日に放送されたスペシャルを区切りに『進ぬ!電波少年』へとリニューアルし、以後2003年までの10年強にわたる長期シリーズへと発展した。
スタジオトークではセットを用いず、松本と松村の2人とゲストの顔だけを映し、CGアートをバックにクロマキーで出演者の顔あるいは上半身だけを合成するという、それまでにない斬新な手法が用いられた[4]。たまに出演者の顔が横に伸びたり、破裂するなどの映像効果があったのもこの番組の特徴である[4]。この映像効果を付けるための機械「ヒット9000」は、当時日本テレビを含めても全世界に数台しか無かったという。
また、VTRのナレーションでテロップをつけて突っ込む(「好感触♡」とオチをつける、など)手法もそれまでにないもの[4]で、後のバラエティ番組に多大な影響を与えたとされている。画質が悪かろうがスタッフが映っていようがお構いなしに、ストーリーさえ成立していれば放送するスタイルも斬新であった。
形式上は松本と松村がMCであるが、スタッフはロケの内容を知らせないなどMCというよりリアクターとして割り切った扱いをしており、特に松村には当日のゲストも知らされなかった。ロケの同行スタッフの人数は他番組に比べて少なく、ヒッチハイクの企画では同行ディレクターがカメラマンを兼ねるなど、番組の人気が出るにつれスタッフの人数が反比例して少なくなっていったのも特徴のひとつである。土屋曰く、ビデオカメラの進化、小型化により、少人数でもそれなりの画質を提供できるようになったとのことである。
上記以外にも、経営が危なくなった新宿末廣亭を「広末亭に改名すればいい!」と、勝手に作った看板を持って山田花子が突撃するも、受付で門前払いされたり、フランスのポール・モーリアを松本が訪れ、作曲を無理やり懇願。「ネコなんだもん」というタイトルで作曲してもらうことに成功するなどの企画も放送された。
上記以外にも、番組から電波子(現:滝島梓)というアイドルタレントを生み出し、それの妹分・電波子2〜28号を登場させるという企画や、女性タレントの広告ポスターに対し「小便を漏らしているようだ」と抗議していた(地方)議員に、「それはお漏らしとは言わない」と松村が自らオムツ姿で出向き、実際にお漏らししているポスターを持っていった企画も放送された。
お笑いコンビが海外をヒッチハイクしながらゴールを目指すという企画。
のちの番組の顔となり、『進ぬ!電波少年』でも『アフリカ・ヨーロッパ大陸縦断ヒッチハイク』(便宜上本項に含める)、『80日間世界一周』などとシリーズ化された。
1996年4月、番組オーディションに参加した当時無名のお笑いコンビ猿岩石(有吉弘行、森脇和成)が、土屋に「電波少年INTERNATIONAL」の香港会場で前説をするように頼まれて連れていかれた。しかし、番組の放送中に突然呼び出されて、そこで「ユーラシア大陸をヒッチハイクで横断、ロンドンがゴール」という壮大な目的を果たすよう告げられる。もともとTake2が本命として企画されたものであったが、深沢邦之が当時新婚であったため断られ、代わりに半年間のスケジュールが全く白紙だった猿岩石が起用された[11]。
軽い気持ちで引き受けた2人だったが、中国入国の際にビザが必要であることを知らず、いきなり香港で数日足止めを食らうことになった[注 5]。所持金の10万円はすぐに底をつき、その後は日雇いアルバイトをしながら食費、交通費を稼ぎ心身ボロボロになりながらヒッチハイクを繰り返し西へと向かった。
インドを過ぎた辺りから高い人気が出始め、視聴率は急上昇。結果、他の企画が押されるはめとなり、松村降板にもつながった(後述)。爆風スランプによる応援歌「旅人よ」も発売されたり、ヒッチハイク時代を書いた『猿岩石日記』もシリーズ累計で250万部のベストセラーになったりと反響は大きかった。
この企画において、猿岩石は全行程をヒッチハイクだけでゴールしたとされていたが、道中で3回ヒッチハイクでない飛行機を使っていたことが判明した。ルートの途中には、国境での外国人入国禁止となった国や内戦や治安が悪いところがあり、大事をとって飛行機に乗ったものとしているが、番組内では判明するまで全く触れていなかった。日本テレビの氏家齊一郎社長(当時)は「(バラエティという)番組の性質上、倫理とか道義的な責任はないと考える」とコメントし、各方面から非難を受けた。
また、番組中で猿岩石が「治安の悪い地域で野宿をする」「生水を飲む」といった、実際の旅行者なら絶対に行わない行動をしていることから、バックパッカー経験者からは「番組を真似した視聴者が実際にやれば命に関わる」との警告の声も出ている[12]。
一方で、2人の頑張っている姿に感銘を受けた俳優の渡哲也から石原プロモーションを通じて、日本テレビに猿岩石への「救援物資」提供の打診を行っていたことを、渡が逝去して間もない2020年8月に、有吉が自身のレギュラーラジオ番組『有吉弘行のSUNDAY NIGHT DREAMER』(ジャパンエフエムネットワーク)で明らかにしている。日本テレビ側が丁重に断ったため、物資の提供こそ実現しなかったが、猿岩石の帰国後に石原軍団開催のパーティーに招待されるなど、渡との交友関係が続いた[13]。
幾度のリタイヤの危機を乗り越え、1996年の10月にゴール。ゴールの模様は、日本テレビアナウンサー(当時)の船越雅史が実況レポートを担当し、当初は10月19日に生放送が予定されていたが、当日に読売ジャイアンツが出場する日本シリーズ第1戦の中継が入ったため、急遽10月22日の同時間帯での録画に切り替えられた。
ゴール直後、番組から「猿岩石をもっと応援したい」として「今度は南北アメリカ大陸縦断」と提案され、日本行きかスタート地点のマゼラン海峡行きのチケットのどちらか選択するよう迫られるが、二人は迷うことなくすぐに日本行きを選択。この件について、日本テレビへ抗議電話が殺到し回線がパンクする事態となった。結局猿岩石は帰国を選択するが、後年「帰りの飛行機の中、(日本行きを選んだことに)スタッフ全員が怒り狂って一切口を聞いてくれず、その顔は般若だった」と語っている。一方で、土屋は著書において「電波少年がお笑い番組なのに感動へ向かっていることに危機感を覚え、猿岩石は絶対に日本行きを選ぶと確信していたからこそ、予防注射をさせるなどの敢えてお馬鹿な演出をした」ことを明かしている。この時、猿岩石が選ばなかった「南北アメリカ大陸縦断ヒッチハイク」の企画はドロンズに受け継がれ(後述)、猿岩石ほどではないが高い人気を博した。
猿岩石は帰国後、西武球場(現:西武ドーム)で凱旋帰国ライブを行ない(猿岩石本人には到着まで内緒)、超満員の客に迎えられた。『ゴッドタン』ドスベリサミットで有吉弘行が述懐したところによると、この時あくまで感動を味わいたかった客の前でネタを見せたが、スベるどころか怒りを買ってしまったという。
本番組の終了後も、2007年よりシリーズ化されたDVD「我々は有吉を訴える」や、2009年の『24時間テレビ』内での企画[注 6]など、有吉をメインとしたヒッチハイク企画が度々行われた。
また本番組と同じく、日本テレビ系列にて放送されたバラエティ番組『有吉反省会』の2時間スペシャル(2014年3月31日放送分)に土屋が反省人として出演した際、土屋は同番組にて司会を務めていた有吉を巻き込もうとするが、この時は逆に有吉が土屋に対して「日本縦断ヒッチハイク」を言い渡し、土屋自身の禊として「日本縦断ヒッチハイク」を決行している[注 7]。
1996年10月末、電波少年の前説を担当していたドロンズ(大島直也、石本武士(現:ドロンズ石本))に突然カンペが出され、南北アメリカ大陸の縦断ヒッチハイクを命ぜられる。ヒッチハイクといえば猿岩石のイメージが強いが、実際のところ1997年大晦日にゴールするまでにかかった日数は、猿岩石の倍である1年2カ月に及んだ。
猿岩石の時と同様に、こちらも当初からドロンズがこの企画に挑戦する予定ではなく、当初は別のお笑いコンビの出演が内定していたことが、後年明らかにされている。詳細は#松村降板騒動の節も参照。
ドロンズの旅は常に出会いを大切にする旅であり、ドキュメンタリー色が強かった。アルゼンチンで、地元の人のアドバイスにより小学校でスペイン語を勉強し、日常会話に支障がないほどに習得する。その後、入院した病院で同行ディレクターに行動を強制されたことをきっかけに一度ギブアップを宣言するが、協議の結果和解が成立し終了の危機から脱する。ブエノスアイレス州のドロレス(en:Dolores, Buenos Aires)という街では「電波少年番外編」の企画としてはねだえりかとともにドロンズを探していた両親との再会を果たし、突然の出発で顔も合わせる暇がなかった家族に対し改めて旅の出発の挨拶をする。ペルーでは地元テレビ局のプロデューサーに気に入られ、1カ月近くバラエティ番組『リサスイサルサ』(es:Risas y salsa)に出演し、アメリカではキャンピングカーで旅をしている男性に、体調不良になった大島の入院費を全額負担してもらうなど、人との触れ合いが多かった。一方、同行ディレクターが見知らぬ男に暴行される、ヒッチハイクした車がスピードの出しすぎで横転する事故に遭うなど、一歩間違えば生死に関わるようなトラブルも多かった[注 8]。
同企画でも猿岩石の時と同様にテーマ曲が作られ、TUBEの前田亘輝による応援歌「君だけのTomorrow」がヒットを記録した。書籍としても、企画と並行して『ドロンズ日記』全5巻が、また旅の完結後にムック本「全ドロンズ―Whole lotta Dorons with comic」が発売された。
ゴールの模様は、1997年12月31日の大晦日にNHK紅白歌合戦の裏番組として生中継され、当時の紅白の裏番組としては最高視聴率である15.9%を記録。翌日1998年1月1日の元日には、特番『電波少年INTERNATIONAL14』がウッチャンナンチャンをゲストに迎えて放送されるが、ED時に「実は 進め!電波少年は本日をもって終了します」と書かれたボードを突然見せられ、ドロンズが呆然としたまま番組は終了する[注 9]。
帰国後、ドロンズは24時間凱旋帰国ライブを行なった(全24回だと知らされたのは1回目のライブ直後である)。その後同年4月より新たにスタートした『雷波少年』にて、ロバのロシナンテとともに日本をヒッチハイクして縦断する企画に参加した(雷波少年#ドロンズ関連を参照)。
これらの企画が終了したあと、ドロンズはフジテレビの『DAIBAッテキ!!』『DAIBAクシン!!GOLD』にていずれも司会を務めた。いずれの番組にも当時「チェキッ娘」として出演していた野崎恵は、その後「電波少年的15少女漂流記」に参加している。
ヒッチハイク完結編。シリーズとしては唯一お笑いタレント以外による企画であり、朋友(伊藤高史、チューヤン(謝昭仁))が務めた。ゴール時には、猿岩石・ドロンズがともにスタジオゲストとして出演し、ゴールの瞬間を見守った。
1997年4月13日に朝日放送(ABC)制作・テレビ朝日系列で全国ネット放送された『ゴールデンナイター』阪神×巨人戦(甲子園)に松村がゲスト出演。阪神ファンである松村は、阪神が勝利した喜びに興奮して、「この後、『サンデージャングル』(テレビ朝日系列のニュース・スポーツ番組)を見て下さい!!」と発言。松村は、当時土曜日の『サタデージャングル』レギュラーであったことから、姉妹番組を応援する発言を行なった。
本来『サンデージャングル』は23:00からの放送で、本番組は22:30からの放送だが、当日は直前に放送されていた『おしゃれカンケイ』が60分スペシャルであったため、本番組も30分遅れで23:00からの開始となっていた。このため、『電波少年』の裏番組を宣伝する発言をしたという理由で、松村は強制的に番組出演を自粛させられてしまう。もっとも、当日はプロ野球中継の延長により、『サンデージャングル』も同じく30分遅れの23:30からの放送となっており、結果的に本番組とは放送時間が重複しなかった。
その後、松本だけでスタジオ収録が行なわれ、松村のロケのVTRはもちろん、過去のVTRにおいても松村の顔にモザイク処理を施すなどして、松村を徹底的に排除した放送が続く。この仕打ちに松村もまいり、スタジオ収録中の松本に謝罪と復帰を懇願する電話を入れ、松村に悪気がなかったことは認められたが、自粛中に視聴者から「松ちゃんを辞めさせないで!」という意見と、「よくぞ松村を辞めさせてくれた!」という意見が2通ずつ届き、松村に対する世論が拮抗したため、テレゴングによる視聴者投票によって松村の処遇を決めることとなった。
その結果、「許してあげる」:1,340,946票(49.2%)、「許してあげない」:1,383,836票(50.8%)となり、42,890票(1.6%)の差で「許してあげない」に決定した。
その後、視聴者から「松ちゃんを許してあげて!」という意見が多数寄せられたため、松村はすぐに復帰を果たす。ところが、今度は逆に「松村を許してんじゃねーよ!」などの苦情が殺到したとして、再度降板となる。すると、態度をはっきりしない日テレに対して「ふざけてんのか!」という苦情が寄せられるようになったとして、番組内で(木村匡也が軽薄な口調で)「ふざけてます(笑)」と回答、結局松村は復帰する。これにより、松村の降板騒動は再度炎上することとなった。
この間は「レギュラー司会者争奪サバイバルシリーズ!」と称して松村と当時の若手芸人とのVTR対決が行われていた。
しかし、1997年大晦日のドロンズゴール特番には出演するものの、翌日の新年特番にはなぜか出演しなかった。以降『進ぬ!』での出演もなく、大晦日が結果的に最後の出演となった。この突然の降板について番組や本人からは何の挨拶も説明もなく、その後の番組内でも松村について一切触れていなかったことから、土屋は降板騒動について「実はマッちゃんがノイローゼになったとか周囲から言われて心配していた」と語ったが、何の挨拶もなかったことについては「電波少年に花束はいらねぇだろう」の一言しかコメントしなかった。この時、松村の降板に対する抗議電話は一本もなかったという。
『進め!』末期では一時期松村のロケしてきたVTRがほとんど放送されず、松村が「僕のロケ映像が全然放送されない」と言い、深夜のフィラーの時間に『松村邦洋のひとり電波』という5分程度のミニ番組が放送されたが、2回で打ち切りとなった。
松村降板の影響は、前出の「大陸横断ヒッチハイクシリーズ」第2弾にも波及する格好となった。当初、同企画の開始に先立って行われたオーディションにおいて、お笑いコンビ「スープレックス」(川島省吾、秋永和彦)が出演者として内定していた。ところが、スープレックスが松村(や猿岩石)と同じ太田プロダクション所属であったことから、松村降板の煽りを食らって彼らのヒッチハイク企画内定も取り消しとなり、その代替としてマセキ芸能社所属のお笑いコンビであるドロンズが、同企画に参加することになったのである[14][15]。
後年、土屋は自身の著書の中で「番組改編であり、最初から決まっていた」と証言している。これは、以下の事情によるものである。
これらの事情から、「司会進行役の松本は残すにしても、その後の番組の構成上(松村は)外さざるをえなかった」としており、すなわち、「アポなし企画をやめる以上、(立場的にも)松村の降板は避けられなかった」というのが真相であった。したがって、前述の「サンデージャングル発言」は全くの無関係であり、松村も実際はただ台本に従って発言しただけであった。そして、テレゴングによる視聴者投票は、実はスタッフによって意図的に行われた物で、松村の処遇に対しての視聴者からの意見及び苦情も、あらかじめスタッフに用意された物であり、ひっかけも何も無かったことが明らかにされた。
一方で、「『進め! 電波少年』といったら松村」と、土屋もその功績を認める発言をしている。
本番組を降板後、松村は芸能人として一時期低迷し、当時レギュラー出演していた番組もいくつか降板している[注 10]。特に最低迷期には『高田文夫のラジオビバリー昼ズ』(ニッポン放送)と『アッコにおまかせ!』(TBS)の2本しか出演がない時期も存在した[注 11]。その反面、本業のモノマネ芸を磨くことができたとも語っている。
後年、朝日放送(ABC)の『ナンバ壱番館』に松村が出演した際は、「嫌がらせがなくなったが、自分が街に出ても相手にされなくなった」と紹介された。同番組では具体的な番組名は出していないものの、「松村の発言で降板を余儀なくされた」という解説があった。
2021年1月から民放衛星テレビ局のWOWOWにて放送を開始した『電波少年W 〜あなたのテレビの記憶を集めた〜い!〜』では、松本と共に松村も同番組の司会に起用され、23年ぶりに電波少年シリーズに復帰することになった[16]。
放送日 / 内容 |
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1992年
| 7月 5日
1992年
| 7月12日
1992年 | 7月19日
1992年
| 8月 2日
1992年
| 8月 9日
1992年
| 8月16日
1992年 | 8月23日
1992年 | 9月 6日
1992年
| 9月13日
1992年
| 9月20日
1992年
| 9月27日
1992年10月11日
|
1992年10月18日
|
1992年10月25日 |
1992年11月
| 1日
1992年11月
| 8日
1992年11月15日 |
1992年11月22日
|
1992年11月29日
|
1992年12月
| 6日
1992年12月13日
|
1992年12月20日
|
1992年12月27日 日曜 23:00 - 23:28
|
1993年
| 1月10日 日曜 23:00 - 23:28
1993年
| 1月17日
1993年
| 1月24日
1993年
| 1月31日
1993年 | 2月 7日
1993年
| 2月14日
1993年
| 2月21日 日曜 23:00 - 23:28
1993年
| 2月28日
1993年
| 3月 7日
1993年
| 3月14日
1993年
| 3月21日
1993年
| 3月28日 日曜 23:30 - 23:58
1993年
| 4月 4日 日曜 23:30 - 23:58
1993年
| 4月11日
1993年
| 4月18日
1993年
| 4月25日
1993年
| 5月 2日
1993年
| 5月 9日
1993年
| 5月16日
1993年
| 5月23日
1993年
| 5月30日
1993年
| 6月 6日
1993年
| 6月13日
1993年
| 6月20日
1993年
| 6月27日
1993年
| 7月 4日
1993年
| 7月11日
1993年
| 7月25日
1993年
| 8月 1日
1993年
| 8月 8日
1993年
| 8月15日 日曜 23:00 - 23:28
1993年
| 8月29日
1993年
| 9月 5日
1993年
| 9月12日
1993年
| 9月19日
1993年 | 9月26日
1993年10月 | 3日
1993年10月10日 日曜 23:00 - 23:56 進め!電波少年 玉砕スペシャル
|
1993年10月24日
|
1993年10月31日 |
1993年11月
| 7日
1993年11月14日
|
1993年11月21日 |
1993年11月28日
|
1993年12月
| 5日
1993年12月12日
|
1993年12月19日
|
1993年12月26日
|
1993年12月31日 金曜 18:00 - 25:30 スーパー電波バザール 年越しジャンボ同窓会
|
1994年
| 1月 2日
1994年
| 1月 9日
1994年
| 1月16日
1994年
| 1月23日
1994年
| 1月30日
1994年
| 2月 6日
1994年
| 2月13日
1994年
| 2月20日
1994年
| 2月27日
1994年
| 3月 6日
1994年
| 3月13日
1994年
| 3月20日
1994年
| 3月27日
放送日 / 内容 |
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1994年
| 4月 3日 日曜 23:30 - 24:00
1994年
| 4月17日
1994年
| 4月24日
1994年
| 5月 1日
1994年
| 5月 8日
1994年
| 5月15日
1994年 | 5月22日
1994年
| 5月29日
1994年
| 6月 5日
1994年
| 6月12日
1994年
| 6月19日
1994年
| 6月26日 日曜 23:00 - 23:28
1994年
| 7月 3日
1994年
| 7月10日
1994年
| 7月17日
1994年
| 7月24日
1994年
| 7月31日
1994年
| 8月 7日
1994年
| 8月14日
1994年
| 8月21日
1994年 電波少年INTERNATIONAL 世界中で怒られてきました!
| 8月27日 土曜 19:00 - 20:54
1994年
| 8月28日
1994年
| 9月 4日
1994年
| 9月11日
1994年
| 9月18日
1994年
| 9月25日
1994年10月
| 2日
1994年10月
| 9日 日曜 23:00 - 23:25
1994年10月15日 土曜 21:30 - 23:24 電波少年INTERNATIONAL2 世界中でまた怒られてきました!
|
1994年10月23日
|
1994年10月30日
|
1994年11月
| 6日
1994年11月13日
|
1994年11月20日
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1994年11月27日
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1994年12月
| 4日
1994年12月11日
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1994年12月18日
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1994年12月25日 日曜 23:30 - 23:55
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1994年12月30日 金曜 18:30 - 20:54 電波少年INTERNATIONAL3 世界中でまたまた怒られてきました!
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1994年12月31日 土曜 23:45 - 24:30 いけ年こい年 |
1995年
| 1月 8日
1995年
| 1月15日
1995年
| 1月22日
1995年
| 1月29日
1995年
| 2月 5日
1995年
| 2月12日
1995年
| 2月19日
1995年
| 2月26日
1995年
| 3月 5日
1995年
| 3月12日
1995年
| 3月19日
1995年
| 3月26日 日曜 23:00 - 23:25
1995年 電波少年INTERNATIONAL4 世界中でまた3怒られてきました!
| 4月 4日 火曜 19:00 - 20:54
1995年
| 4月16日
1995年
| 4月23日
1995年
| 4月30日
1995年
| 5月 7日
1995年
| 5月14日
1995年
| 5月21日
1995年
| 5月28日
1995年
| 6月 4日
1995年
| 6月11日
1995年
| 6月18日
1995年
| 6月25日
1995年
| 7月 2日
1995年
| 7月 9日
1995年
| 7月16日
1995年
| 7月23日 日曜 22:30 - 22:55
1995年
| 7月30日
1995年
| 8月 6日
1995年
| 8月20日
1995年
| 8月27日
1995年
| 9月 3日
1995年
| 9月10日
1995年
| 9月17日
1995年
| 9月24日
1995年10月
| 1日 日曜 23:00 - 23:25
1995年10月 電波少年INTERNATIONAL5 生きることへの執着心が勝負でした
| 7日 土曜 19:00 - 20:54
1995年10月
| 8日 日曜 23:00 - 23:25
1995年10月21日 土曜 19:00 - 20:54 電波少年GREAT
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1995年10月22日
|
1995年10月29日
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1995年11月
| 5日
1995年11月12日
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1995年11月19日
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1995年11月26日
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1995年12月
| 3日
1995年12月10日
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1995年12月17日 日曜 23:30 - 23:55
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1995年12月24日 日曜 22:30 - 23:26 進め!電波少年クリスマスイブスペシャル
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1996年 電波少年INTERNATIONAL7 生きてお正月を迎えられて本当によかった
| 1月 1日 月曜 18:30 - 20:54
1996年
| 1月 7日
1996年
| 1月14日
1996年
| 1月21日
1996年
| 1月28日
1996年
| 2月 4日
1996年
| 2月11日
1996年 | 2月18日
1996年
| 2月25日
1996年
| 3月 3日 日曜 23:00 - 23:25
1996年
| 3月10日
1996年
| 3月17日
1996年
| 3月24日
1996年 電波少年INTERNATIONAL8 日本で花見がしたくって…
| 3月29日 金曜 19:00 - 20:54
放送日 / 内容 |
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1996年
| 4月 7日
1996年 電波少年INTERNATIONAL8.1
| 4月13日 土曜 19:00 - 20:54
1996年
| 4月14日 日曜 23:00 - 23:25
1996年
| 4月21日
1996年
| 4月28日
1996年
| 5月 5日
1996年
| 5月12日
1996年
| 5月19日
1996年
| 5月26日
1996年
| 6月 2日
1996年
| 6月 9日
1996年
| 6月16日
1996年
| 6月23日
1996年
| 6月30日
1996年
| 7月 7日
1996年
| 7月14日 日曜 23:00 - 23:25
1996年 電波少年GREAT2
| 7月23日 火曜 19:54 - 21:24
1996年
| 7月28日
1996年
| 8月 4日
1996年
| 8月11日
1996年
| 8月18日
1996年
| 8月25日
1996年 | 9月 1日
1996年
| 9月 8日
1996年
| 9月15日
1996年 | 9月22日
1996年
| 9月29日
1996年10月 電波少年INTERNATIONAL9 猿岩石に負ける訳にはいかないの…
| 5日 土曜 19:00 - 20:54
1996年10月 電波少年 猿岩石外伝
| 6日 日曜 15:30 - 16:55
1996年10月13日
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1996年10月22日 火曜 19:00 - 20:54 電波少年INTERNATIONAL9.1 緊急特番 猿岩石、遂にロンドンゴール完全中継! |
1996年10月27日 日曜 15:30 - 16:55 電波少年 猿岩石外伝2
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1996年11月
| 3日
1996年11月10日
|
1996年11月17日
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1996年11月24日
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1996年12月
| 1日
1996年12月
| 8日
1996年12月15日
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1996年12月24日 火曜 19:00 - 20:54 電波少年INTERNATIONAL10 ボクたちは飛行機乗っていいですか?
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1996年12月29日 日曜 23:00 - 23:25
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1997年 電波少年外伝 猿岩石最後のスペシャル 祝新年につき洗いざらいお話しします…
| 1月 1日 水曜 21:00 - 23:09
1997年
| 1月 5日
1997年
| 1月12日
1997年
| 1月19日
1997年
| 1月26日
1997年
| 2月 2日
1997年
| 2月 9日
1997年
| 2月16日
1997年
| 2月23日
1997年
| 3月 2日
1997年
| 3月 9日
1997年
| 3月16日
1997年 電波少年INTERNATIONAL11 フジ新社屋移転記念スペシャル
| 3月30日 日曜 19:00 - 20:54
1997年
| 4月 6日
1997年
| 4月13日 日曜 23:00 - 23:25
1997年 | 4月20日
1997年
| 4月27日
1997年 電波少年GREAT3
| 5月 3日 土曜 19:00 - 20:54
1997年
| 5月 4日
1997年
| 5月11日
1997年
| 5月18日
1997年
| 5月25日
1997年
| 6月 1日
1997年
| 6月 8日
1997年
| 6月15日
1997年
| 6月22日
1997年
| 6月29日
1997年
| 7月 6日
1997年
| 7月13日
1997年
| 7月20日
1997年
| 7月27日 日曜 23:00 - 23:25
1997年
| 8月 3日
1997年
| 8月10日
1997年
| 8月17日
1997年
| 8月24日
1997年
| 8月31日
1997年
| 9月 7日
1997年
| 9月14日
1997年
| 9月21日
1997年
| 9月28日
1997年10月 電波少年INTERNATIONAL13 愛は地球を救う21
| 4日 土曜 20:10 - 21:54
1997年10月12日 日曜 23:00 - 23:25
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1997年10月25日 土曜 19:00 - 20:54 電波少年INTERNATIONAL13.1
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1997年10月26日
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1997年11月
| 9日
1997年11月23日
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1997年11月30日
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1997年12月
| 7日
1997年12月21日
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1997年12月28日 日曜 23:00 - 23:25
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1997年12月31日 水曜 21:00 - 23:45 電波少年 緊急特別番組 ドロンズ、遂にアラスカゴール極寒完全生中継! 年内ゴールするって言ってたよネ…
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1998年 電波少年INTERNATIONAL14 祝ドロンズゴール!!でもあの後ろにあるのは何?
| 1月 1日 木曜 21:30 - 23:24
放送地域 | 放送局名 | 系列 | ネット形態 | 備考 |
---|---|---|---|---|
関東広域圏 | 日本テレビ | 日本テレビ系列 | 制作局 | |
北海道 | 札幌テレビ | 同時ネット | 『日高晤郎のスーパーサンデー』(一時期青森放送でも同時ネットされていた)の 放送を優先したため、 開始当初は日曜正午からの時差放送(7日遅れ)だったが、 同番組の終了後の1995年4月16日より同時ネット[18] 。 | |
青森県 | 青森放送 | 番組開始当初は金曜16:00 - の遅れネット[19]、 1993年4月11日 - 1994年9月18日は同時ネット[注 13][20]、 1994年10月2日 - 1997年4月3日は 『ねるとん紅鯨団』や『ハンマープライス』を放送していたため 日曜正午→木曜未明(水曜深夜)からの時差ネットに戻っていたが、 1997年4月6日から再度同時ネットとなった[21] (お祭り特番などの場合は時差ネットであった)。 | ||
岩手県 | テレビ岩手 | 遅れネット | 当初より遅れネット(日曜正午→月曜未明(日曜深夜))。 (同時ネットされていた時期や未放送期間もあり)[注 14] | |
宮城県 | ミヤギテレビ | 同時ネット | 『笑撃的電影箱』時代からこの時間は『モット!モット!TV』を放送していたため、 金曜未明(木曜深夜)に3か月半遅れで放送していたが、 1995年4月16日より同時ネット。[22] | |
秋田県 | 秋田放送 | 遅れネット | 1992年10月1日 23:55 - 放送開始[23]、 笑撃的電影箱時代の終了時点では水曜 1:40 -(火曜深夜)の、 終了時点では金曜未明(木曜深夜)からの遅れネット。[24][注 15] | |
山形県 | 山形テレビ | フジテレビ系列 | 開始当初は不定期放送 | |
山形放送 | 日本テレビ系列 | 同時ネット | 山形テレビが1993年4月1日にフジテレビ系列からテレビ朝日系列に ネットチェンジしたのに伴い、 1993年4月4日から同時ネットで放送開始[25]。 | |
福島県 | 福島中央テレビ | 『笑撃的電影箱』時代は非ネット、 枠解体後の1994年4月3日より同時ネットでネット開始。 当日は『オシャレ30・30』が60分スペシャルだったため、 『電波少年』が先行してネット開始となっている[26]。 | ||
山梨県 | 山梨放送 | 初期の数年間は関西テレビの『ねるとん紅鯨団』や『ハンマープライス』を 放送していたため、 後者の放送時間が変更されるまで同時ネットされなかった。 開始当初は金曜未明(木曜深夜)の遅れネット、 1994年4月3日より同時ネット[27] | ||
新潟県 | テレビ新潟 | 開始当初は木曜未明(水曜深夜)の遅れネット、 1993年11月7日から同時ネット[28]。 | ||
長野県 | テレビ信州 | 遅れネット | 開始当初は土曜未明(金曜深夜)、 終了時点では日曜未明(土曜深夜)での遅れネット[29] 同じ時間帯では『信州2230TV』を放送[注 16] | |
静岡県 | 静岡第一テレビ | 同時ネット | 開始当初は日曜未明(土曜深夜)の遅れネット、 1992年10月11日から同時ネット。[30] | |
富山県 | 北日本放送 | 開始当初は非ネット、 1992年10月11日から同時ネットで放送開始[31]。 | ||
石川県 | テレビ金沢 | 開始当初から同時ネット[32]。 | ||
福井県 | 福井放送 | 日本テレビ系列 テレビ朝日系列 |
遅れネット | 打ち切りと再開を繰り返し、 開始当初 - 11月26日の木曜未明(水曜深夜)、1995年4月11日 - 1996年3月26日の火曜未明(月曜深夜)、 1997年4月16日 - 9月24日の水曜16:00 -、 1997年10月1日 - 1998年1月21日の水曜未明(火曜深夜)からで放送された。[33][注 15] |
中京広域圏 | 中京テレビ | 日本テレビ系列 | 1993年10月3日に日曜未明(土曜深夜)での遅れネットで放送開始、 終了時点では土曜正午から[34] 同じ時間帯では『P.S.愛してる!』を放送[注 16] | |
近畿広域圏 | 読売テレビ | 1994年4月7日に金曜未明(木曜深夜)での遅れネットで放送開始[35]。 非ネットや火曜未明(月曜深夜)での時差ネットの期間も有り。 同じ時間帯では『大阪ほんわかテレビ』を放送[注 16]。 | ||
鳥取県・島根県 | 日本海テレビ | 同時ネット | 開始当初から同時ネット[36]。 | |
広島県 | 広島テレビ | 遅れネット | 開始当初は土曜正午、終了時点では日曜11:45 - の遅れネット[37] 同じ時間帯では『進め!スポーツ元気丸』を放送[注 16]。 | |
山口県 | 山口放送 | 同時ネット | 山口朝日放送開局以前は、テレビ朝日の時代劇のうち、 本来は木曜20時台に放送される作品(『名奉行 遠山の金さん』ほか)の 時差ネットのため、開始当初は非ネット、 笑撃的電影箱時代の1993年10月3日から同時ネットで放送開始。[38] | |
徳島県 | 四国放送 | 遅れネット | 1997年10月5日 1:00 - (4日深夜)放送開始。 終了時点では日曜未明(土曜深夜)からの遅れネット。[39] [注 15] | |
香川県・岡山県 | 西日本放送 | 同時ネット | 番組スタートから同時ネットしていたものの、 初期ではローカルの特番で潰れることがしばしばあった。 | |
愛媛県 | 南海放送 | 伊予テレビ(現:あいテレビ)開局以前は『ナショナル劇場』、 あいテレビ開局後はテレビ朝日の日曜20時台[注 17]の遅れネットを行っており、 1992年7月22日 - 1992年9月30日、1994年3月23日 - 1995年3月29日において 水曜未明(火曜深夜)からの遅れネットだった。 1995年4月16日から同時ネット。[40] | ||
高知県 | 高知放送 | 遅れネット | 高知さんさんテレビ開局以前は フジテレビの連続ドラマ(『木曜劇場』などの月9以外の枠)を番販ネット、 その後も『THE夜もヒッパレ』を遅れネットしていたため、 特番を除いて日曜日の昼に時差放送していた。 (開始当初は火曜未明(月曜深夜)、終了時点では水曜16:55 - )[41] | |
福岡県 | 福岡放送 | 土曜17:00 - の遅れネット[42]。 同じ時間帯では『ナイトシャッフル』を放送[注 16]。 | ||
長崎県 | 長崎国際テレビ | 同時ネット | 開始当初から同時ネット[43]。 | |
熊本県 | くまもと県民テレビ | 当初『ファッション通信』を放送していたため日曜の昼に遅れネット。 1996年10月13日より同時ネット[44] | ||
大分県 | 大分放送 | TBS系列 | 遅れネット | 開始当初は水曜未明(火曜深夜)[45]の遅れネット、1992年9月30日で打ち切り。 |
テレビ大分 | 日本テレビ系列 フジテレビ系列 |
1993年10月19日に火曜17時台で放送開始、1994年4月23日に土曜23:00 - に移動、 1994年10月8日に土曜18:30 - に移動を繰り返すも1995年3月25日で再度打ち切り、 1997年4月5日に土曜23:00 - で再開[46]。 | ||
宮崎県 | テレビ宮崎 | フジテレビ系列 日本テレビ系列 テレビ朝日系列 |
1994年4月8日 0:40 - (7日深夜)放送開始[47]。 ローカル編成のため、木曜未明(水曜深夜)からの遅れネット。 | |
鹿児島県 | 鹿児島読売テレビ | 日本テレビ系列 | 同時ネット | 開始当初は未開局であるが、先行局では非ネット。 サービス放送期間中の1994年3月27日から同時ネット。[48] |
沖縄県 | 琉球放送 | TBS系列 | 遅れネット | 基本的に2週間遅れで深夜帯(開始当初は木曜未明(水曜深夜)[49]、 終了時点では水曜未明(火曜深夜)[50])の放送。[注 18] |
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