FMA I.Ae. 33 プルキー II
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FMA I.Ae. 33 プルキー II(FMA IAe 33 Pulqui II、先住民族のマプチェ語でPulqúiは矢の意)[2]は、1940年代の終わりにペロン政権下のアルゼンチンでクルト・タンクが設計し、航空工廠(スペイン語: Fábrica Militar de Aviones:FMA)で製作されたジェット戦闘機である[3]。航空工廠は、完成しなかった第二次世界大戦時のTa 183 フッケバインの設計要素の多くを具現化した[4] I.Ae. 33 プルキー II を アルゼンチン空軍に就役しているグロスター ミーティア F4の後継機とすることを目論んでいた。プルキー II の開発は問題が多く長期化し、4機の試作機のうち2機が致命的な墜落事故を起こして失われた。試作機の中の1機は「自由革命」(スペイン語: Revolución Libertadora)の期間の戦闘で行われたテストで成功を収めたにもかかわらず、開発プロジェクトが直面した政治的、経済的、技術的な困難によりI.Ae. 33は能力を最大限に発揮する段階までは到達できず、最終的にアルゼンチン政府は自国産の戦闘機を量産段階まで開発を継続することよりも米国からF-86 セイバー機を購入することに決めた[5]。
FMA I.Ae. 33 プルキー II