吉川経光
ウィキペディア フリーな encyclopedia
吉川 経光(きっかわ つねみつ)は、鎌倉時代中期の武士、御家人。吉川氏4代当主。
概要 凡例吉川 経光, 時代 ...
時代 | 鎌倉時代 |
---|---|
生誕 | 建久3年(1192年) |
死没 | 文永4年9月17日(1267年10月6日) |
改名 | 経光→慈願(法名)[1] |
別名 | 弥次郎または左衛門次郎、弥二郎[1]、恒光[1] |
官位 | 左衛門尉[1] |
主君 | 鎌倉幕府 |
氏族 | 藤原南家工藤流吉川氏 |
父母 | 父:吉川朝経[1] |
子 | 経高[1]、経盛[1]、経茂[1]、経信[1]、経時 |
テンプレートを表示 |
閉じる
仁治元年(1240年)、父・吉川朝経が死去。この時の経光の年齢は49歳であり、それ以前に家督を相続していたと思われる。
承久3年(1221年)の承久の乱で鎌倉幕府側として参戦しており、京都の宇治橋の戦いにて戦功を挙げた。本領の駿河国吉河荘、播磨国揖保郡福井荘に加えて、安芸国大朝本荘の地頭職[2]に任ぜられた。