大日本帝国陸軍
日本にかつて存在していた陸軍組織 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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大日本帝国陸軍(だいにっぽんていこくりくぐん、だいにほんていこくりくぐん、旧字体:大日本帝󠄁國陸軍、英語: Imperial Japanese Army、IJA)は、1871年(明治4年) - 1945年(昭和20年)まで日本に存在していた軍隊組織である。通称は日本陸軍、帝国陸軍、陸軍。
「日本陸軍」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「日本陸軍 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 |
大日本帝国陸軍 | |
---|---|
大日本帝󠄁國陸軍 | |
創設 | 1871年(明治4年) |
解散 | 1945年(昭和20年) |
国籍 | 日本 |
所属組織 | 日本軍 |
軍種 | 陸軍 |
任務 | 陸戦 海戦 航空作戦 |
行進曲 | 陸軍分列行進曲 |
主な戦歴 | 日清戦争 日露戦争 第一次世界大戦 第二次世界大戦 |
指揮 | |
大元帥 | 明治天皇 大正天皇 昭和天皇 |
参謀総長 (軍令) | 山縣有朋 兵部大輔 (初代参謀局都督) 有栖川宮熾仁親王(初代) 梅津美治郎(最後) |
陸軍大臣 (軍政) | 大山巌(初代) 下村定(最後) |
識別 | |
国籍旗 | |
解体後は、陸上自衛隊との区別などのため旧日本陸軍、旧帝国陸軍、旧陸軍という名称も使用される。
大日本帝国陸軍の名称は、国外からの呼称もしくは対外的な連絡文書、公文書等の一部に明治10年代から用いられた。例として、1918年(大正7年)に当時の陸軍大臣大島健一(寺内内閣)がイギリス国王ジョージ5世に充てた祝電「英国皇帝陛下ヘ陸軍大臣ヨリ祝電(大正七年一月二十五日午後一時三十分発電)」では、日本陸軍・帝国陸軍・大日本帝国陸軍の各名称が使用されている[1]。
英称はImperial Japanese Army、Japanese Imperial Army、Japanese Armyなど。このうち「大日本帝国陸軍(日本帝国陸軍)」に相当するImperial Japanese Armyの名称・呼称は、1913年(大正2年)にイギリス陸軍省(現:国防省陸軍部)がウィリアム・カニンガム・グリーン駐日イギリス大使経由で外務大臣牧野伸顕(第1次山本内閣)に充てた、日本の新型騎銃である四四式騎銃1挺の寄贈を依頼する英文などで使用されている[2]。
大日本帝国憲法制定前はその定めが未だ充分ではない点もあったが、憲法制定後は軍事大権については憲法上内閣から独立し、直接天皇の統帥権に属するものとされた。したがって、陸海軍(日本軍)の最高指揮官は大元帥たる天皇ただ一人であり、帝国陸軍については陸軍大臣(大臣)・参謀総長(総長)・教育総監(総監)が天皇を除く最高位にあり(直隷)、これらは陸軍三長官と呼称された。なお、三長官には陸軍大将ないし陸軍中将が任命されるため、役職自体は帝国陸軍の最高位といえど階級自体は必ずしも最高位の者が就任するものではなく、特に歴代の陸軍大臣と教育総監には陸軍中将が補職されることも少なくなかった。
この三長官の補佐機関として、「省部」や「中央」とも呼称される陸軍省・参謀本部・教育総監部の3つの官衙(役所)が設けられており、陸軍大臣(陸軍省)が軍政・人事を、参謀総長(参謀本部)が軍令・作戦・動員を、教育総監(教育総監部)が教育をそれぞれ掌っていた。また、三機関の序列第2位の次席相当職として陸軍次官(次官、陸軍省)・参謀次長(次長、参謀本部)・教育総監部本部長(本部長、教育総監部)がある。
1938年(昭和13年)12月、航空戦力の拡張・独立および統率柔軟化のため陸軍航空総監部が新設。航空総監(総監)を長とし、主に航空関連学校など陸空軍の教育を掌った[注釈 1]。第二次大戦最末期には航空関連学校(一部補充学校を除く)ともども軍隊化され、航空総監部は廃止、航空総軍に改編された。
参謀本部は戦時・事変時に陸海軍の最高統帥機関(諸外国軍における最高司令部に相当)として設置される大本営において大本営陸軍部となり、大元帥の名において発する大陸命を作成する存在であるが、これをもって参謀総長がいわゆる陸軍最高指揮官(陸軍最高司令官・陸軍総司令官に相当)となるわけではない。なお、教育総監(教育総監部)は帝国陸軍の教育を掌握する建前であるが、憲兵・経理・衛生・法務や機甲・航空、参謀・諜報といった特定職務に関係する学校等は、それぞれ陸軍省・参謀本部・航空総監部やその外局の管轄である。
軍旗
帝国陸軍の前身である御親兵が発足するよりも前の1870年6月(明治3年5月)、新生帝国陸軍のシンボルとして十六条旭日旗を意匠とした陸軍御国旗を採用し、さらに1879年(明治12年)に改めて陸軍御国旗の仕様を一部改正した旭日旗が軍旗として制定されている。
この軍旗は連隊旗として歩兵連隊と騎兵連隊のみに対し大元帥(天皇)から親授されるものであったが、旭日旗の意匠は「帝国陸軍の象徴」として軍民問わず広く認知・使用されていた。また、旭日の意匠を用いたいわゆる「旭日旗」を日本において初めて考案・採用したのは帝国陸軍である。
- 陸軍御国旗/軍旗の意匠に用いられた旭日旗
- 常備歩兵連隊の軍旗
- 常備騎兵連隊の軍旗
- 歩兵第321連隊の実物の軍旗
陸軍省制定行進曲
観兵式分列行進曲
1886年(明治19年)、シャルル・ルルーが兵部省の委託により作曲した行進曲。自身が作曲した軍歌『抜刀隊』と『扶桑歌』の2つの曲を基に『観兵式分列行進曲(“扶桑歌”)』として制作された。初演は陸軍教導団軍楽隊演奏にて鹿鳴館で行われた。本曲は1902年(明治35年)の第2回目の改定を経て現在の形となった。翌年の1903年(明治36年)に兵部省を改編・発足した陸軍省の制式行進曲に制定される(ルルーは1889年(明治22年)に帰国)。
主に各種の陸軍観兵式(大礼・天長節・陸軍始)、師団等の閲兵式における分列で奏楽された。また、民間の各レーベルにおいてレコード化され、国民学校芸能科音楽の課題曲になるなど、民間においても親しまれていた。
『陸軍分列行進曲』という通称でも知られるが、「陸軍〜」の冠称については、戦前には確認できない[注釈 2]。英訳は『Army Defile March “Fusouka”』など。
観兵式行進曲
作曲者・作曲年不明。徒歩部隊の分列に用いる行進曲。
観兵式乗馬隊行進曲
作曲者・作曲年不明。自動車化歩兵部隊・機甲部隊・機械化砲兵部隊・輓馬砲兵部隊・飛行部隊等の分列行進・分列飛行の際に奏楽された行進曲。
駈足行進曲「賀路」
帽章
帝国陸軍の建軍初期は旭日章を意匠としたものを「日章」と称し帽章に使用していたが、のちに一般師団(一般将兵)に属する者および陸軍軍属は「五芒星(五光星)」を意匠とした「星章」を、「近衛」の称呼を冠する近衛師団に属する部隊に属する者は「星章」の周囲を「桜葉」で覆ったものを帽章として使用した。しかしながら、旭日章を帽章とする「第一種帽」は将校准士官が正装時に着用する「正帽」として、また、儀丈部隊でもある近衛騎兵連隊に属する下士官兵は騎兵将校准士官正衣(正帽)に準じる「供奉服」を、ともに第二次大戦期まで存続・使用している。
軍装
ギャラリー
組織
帝国陸軍の組織は、役所である官衙・部隊組織である軍隊・将兵を養成ないし再教育する学校(実施学校・補充学校)・衛生を担う陸軍病院と、これらのいずれにも属さない特務機関とに区分されていた。
- 学校
- 教育総監部管轄
- 陸軍省管轄
- 参謀本部管轄
- 航空総監部管轄
- 陸軍航空士官学校・明野陸軍飛行学校・下志津陸軍飛行学校・浜松陸軍飛行学校・熊谷陸軍飛行学校・大刀洗陸軍飛行学校・白城子陸軍飛行学校・仙台陸軍飛行学校・鉾田陸軍飛行学校・陸軍少年飛行兵学校・大分陸軍少年飛行兵学校・大津陸軍少年飛行兵学校・所沢陸軍航空整備学校・岐阜陸軍航空整備学校・立川陸軍航空整備学校・陸軍航空通信学校等 - 第二次大戦最末期に航士校・少飛校を除き軍隊化
- 陸軍病院
- 特務機関
階級:1945年(昭和20年)6月から廃止まで
区分 | 兵科 | 技術部 | 経理部 | 衛生部 | 獣医部 | 法務部 | 軍楽部 | ||||||||||
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将官 | 陸軍大将 | ||||||||||||||||
陸軍中将 | 陸軍技術中将 | 陸軍主計中将 | 陸軍建技中将 | 陸軍軍医中将 | 陸軍薬剤中将 | 陸軍獣医中将 | 陸軍法務中将 | ||||||||||
陸軍少将 | 陸軍技術少将 | 陸軍主計少将 | 陸軍建技少将 | 陸軍軍医少将 | 陸軍薬剤少将 | 陸軍歯科医少将 [注釈 3] | 陸軍獣医少将 | 陸軍法務少将 | |||||||||
佐官 | 陸軍大佐 | 陸軍憲兵大佐 | 陸軍技術大佐 | 陸軍主計大佐 | 陸軍建技大佐 | 陸軍軍医大佐 | 陸軍薬剤大佐 | 陸軍歯科医大佐 | 陸軍獣医大佐 | 陸軍法務大佐 | |||||||
陸軍中佐 | 陸軍憲兵中佐 | 陸軍技術中佐 | 陸軍主計中佐 | 陸軍建技中佐 | 陸軍軍医中佐 | 陸軍薬剤中佐 | 陸軍歯科医中佐 | 陸軍獣医中佐 | 陸軍法務中佐 | ||||||||
陸軍少佐 | 陸軍憲兵少佐 | 陸軍技術少佐 | 陸軍主計少佐 | 陸軍建技少佐 | 陸軍軍医少佐 | 陸軍薬剤少佐 | 陸軍歯科医少佐 | 陸軍衛生少佐 | 陸軍獣医少佐 | 陸軍獣医務少佐 | 陸軍法務少佐 | 陸軍法事務少佐 | 陸軍軍楽少佐 | ||||
尉官 | 陸軍大尉 | 陸軍憲兵大尉 | 陸軍技術大尉 | 陸軍主計大尉 | 陸軍建技大尉 | 陸軍軍医大尉 | 陸軍薬剤大尉 | 陸軍歯科医大尉 | 陸軍衛生大尉 | 陸軍獣医大尉 | 陸軍獣医務大尉 | 陸軍法務大尉 | 陸軍法事務大尉 | 陸軍軍楽大尉 | |||
陸軍中尉 | 陸軍憲兵中尉 | 陸軍技術中尉 | 陸軍主計中尉 | 陸軍建技中尉 | 陸軍軍医中尉 | 陸軍薬剤中尉 | 陸軍歯科医中尉 | 陸軍衛生中尉 | 陸軍獣医中尉 | 陸軍獣医務中尉 | 陸軍法務中尉 | 陸軍法事務中尉 | 陸軍軍楽中尉 | ||||
陸軍少尉 | 陸軍憲兵少尉 | 陸軍技術少尉 | 陸軍主計少尉 | 陸軍建技少尉 | 陸軍軍医少尉 | 陸軍薬剤少尉 | 陸軍歯科医少尉 | 陸軍衛生少尉 | 陸軍獣医少尉 | 陸軍獣医務少尉 | 陸軍法務少尉 | 陸軍法事務少尉 | 陸軍軍楽少尉 | ||||
准士官 | 陸軍准尉 | 陸軍憲兵准尉 | 陸軍技術准尉 | 陸軍主計准尉 | 陸軍経技准尉 | 陸軍建技准尉 | 陸軍衛生准尉 | 陸軍療工准尉 | 陸軍獣医務准尉 | 陸軍法務准尉 | 陸軍軍楽准尉 | ||||||
下士官 | 陸軍曹長 | 陸軍憲兵曹長 | 陸軍技術曹長 | 陸軍主計曹長 | 陸軍経技曹長 | 陸軍建技曹長 | 陸軍衛生曹長 | 陸軍療工曹長 | 陸軍獣医務曹長 | 陸軍法務曹長 | 陸軍軍楽曹長 | ||||||
陸軍軍曹 | 陸軍憲兵軍曹 | 陸軍技術軍曹 | 陸軍主計軍曹 | 陸軍経技軍曹 | 陸軍建技軍曹 | 陸軍衛生軍曹 | 陸軍療工軍曹 | 陸軍獣医務軍曹 | 陸軍法務軍曹 | 陸軍軍楽軍曹 | |||||||
陸軍伍長 | 陸軍憲兵伍長 | 陸軍技術伍長 | 陸軍主計伍長 | 陸軍経技伍長 | 陸軍建技伍長 | 陸軍衛生伍長 | 陸軍療工伍長 | 陸軍獣医務伍長 | 陸軍法務伍長 | 陸軍軍楽伍長 |
兵科部 | 兵科 | 技術部 | 衛生部 | 法務部 | 軍楽部 | |
---|---|---|---|---|---|---|
一級 | 陸軍兵長 | 陸軍憲兵兵長 | 陸軍技術兵長 | 陸軍衛生兵長 | 陸軍法務兵長 | 陸軍軍楽兵長 |
二級 | 陸軍上等兵 | 陸軍憲兵上等兵 | 陸軍技術上等兵 | 陸軍衛生上等兵 | 陸軍法務上等兵 | 陸軍軍楽上等兵 |
三級 | 陸軍一等兵 | 陸軍技術一等兵 | 陸軍衛生一等兵 | |||
四級 | 陸軍二等兵 | 陸軍技術二等兵 | 陸軍衛生二等兵 |
帝国陸軍においては戦闘職種および憲兵を兵科(へいか)、後方の支援職種を各部(かくぶ)とし、合わせて兵科部(へいかぶ)と称した。歩兵科・騎兵科・砲兵科・工兵科・航空兵科・輜重兵科の兵科区分は、1940年(昭和15年)9月13日および15日の改正により憲兵を除き廃止されまとめて「兵科」とし、また、兵科「定色」(兵科色)も廃止された。なお、これはあくまで従来の兵科区分を撤廃しただけであり、広義で戦闘職種を意味する「兵科」の呼称や職種を更に細分化した「兵種」、および各部と各部の「定色」は存続している。建軍最初期の僅かな期間を除き(西郷隆盛陸軍元帥)、日本軍において元帥は階級ではなく、元帥府に列せられた陸海軍大将に与えられる称号である(元帥陸軍大将)。帝国陸軍においては大将から少尉を将校、准尉を准士官、曹長から伍長を下士官、兵長から二等兵までを兵と称していた。将官のうちの大将は親任官、中将・少将は勅任官、佐官・尉官は奏任官、准士官・下士官は判任官でこれらは武官たる官吏となり、これらの階級に任命される際には任官と称する。兵は国民の義務たる兵役によって軍隊に入隊し与えられる階級であるため、官吏ではなく任官とも称しない[注釈 4]。なお陸軍予科士官学校[注釈 5]・陸軍幼年学校・陸軍少年飛行兵学校などの生徒は階級を指定されない。
なお、1932年(昭和7年)6月に改正されるまでは下士官を下士、兵を卒(「一等兵」は「一等卒」、「二等兵」は「二等卒」)と、同年2月に改正されるまでは「准尉」を「特務曹長」と称していた。また、1932年(昭和7年)2月には各部の相当官制は廃止され兵科に準ずることとなり(「各部将校相当官」は「各部将校」)、階級呼称も同様になった(「陸軍軍医総監」は「陸軍軍医中将」、「陸軍一等薬剤正」は「陸軍薬剤大佐」、「陸軍一等主計」は「陸軍主計大尉」、「陸軍上等蹄鉄工長」は「陸軍獣医務准尉」、「陸軍一等楽手」は「陸軍軍楽曹長」、「陸軍上等看護兵」は「陸軍衛生上等兵」など)。「兵長」は1940年(昭和15年)9月に新設されたものである。「准尉」は叩き上げの古参下士官が任官する階級(判任官たる将校待遇の下士官)であり、「見習士官」(階級は曹長)や士官候補生たる陸軍士官学校本科・陸軍航空士官学校・陸軍経理学校本科の生徒(階級は軍曹)とは全く異なる位置づけである。
おおむね太平洋戦争(大東亜戦争)頃の部隊・隊指揮官の補職例は以下の通り。
- 総軍(支那派遣軍・南方軍・関東軍)総司令官 / 総軍(第1総軍・第2総軍・航空総軍)司令官 - 元帥陸軍大将・大将
- 方面軍司令官 - 大将・中将
- 軍司令官・航空軍司令官・師団長・戦車師団長・飛行師団長・高射師団長 - 中将
- 挺進集団長・旅団長・歩兵団長 - 少将
- 飛行団長 - 少将・大佐・中佐
- 挺進団長・歩兵連隊長 - 大佐
- 砲兵連隊長・騎兵連隊長・工兵連隊長・輜重兵連隊長・戦車連隊長 - 中佐
- 飛行戦隊長・大隊長 - 中佐・少佐
- 挺進連隊長・滑空歩兵連隊長・捜索連隊長 - 少佐
- 飛行中隊長・独立飛行中隊長・中隊長 - 大尉・中尉
- 飛行小隊長・小隊長 - 中尉・少尉
- 飛行分隊長 - 曹長・軍曹
- 分隊長 - 軍曹・伍長
階級章
以下は1938年(昭和13年)に改正された昭和13年制式[注釈 6] の階級章(襟章)。襟章の地質が緋色でなく白色になる法務部将校(法務官)を除き全兵科部共通で、御服を着用する大元帥は陸軍大将の階級章に更に菊花紋を付し、元帥陸軍大将は陸軍大将の階級章と共に元帥徽章を右腹部に付し元帥佩刀を佩用する。陸軍予科士官学校・陸軍幼年学校・陸軍少年飛行兵学校・陸軍少年戦車兵学校生徒など、階級を指定されない生徒は星章を付さない無地の階級章を佩用する(少年飛行兵では地質の色は緋色ではなく淡紺青色)。
- 大元帥
- 元帥徽章(元帥陸軍大将)
- 大将
- 中将
- 少将
- 大佐
- 中佐
- 少佐
- 大尉
- 中尉
- 少尉
- 准尉
- 曹長
- 軍曹
- 伍長
- 兵長
- 上等兵
- 一等兵
- 二等兵
徴募・生活
建軍期において将校は明治維新を推進した藩出身の士族が中心となっていたが、藩閥による恣意的な登用を避け近代的な陸軍将校養成制度を確立するため、陸軍士官学校(旧称:兵学校・兵学所・兵学寮)が設立されて以降は、基本的には旧制中学校ないし陸軍幼年学校を経て陸軍士官学校(予科)へ入校し旧制高等学校と同等の普通学および基礎的な軍事教育を受けたのち、士官候補生として原隊にて隊附勤務を実施してから陸軍士官学校の本科へ進み専門的な軍事教育を受け、卒業後に見習士官を経て少尉に任官することが陸軍現役兵科将校になる途であった。なお、初期には陸軍教導団を経て下士(下士官)に任官した後に陸軍士官学校へ入校する途もあり、武藤信義のように元帥陸軍大将になった例もあった。1938年(昭和13年)には新たに航空要員たる将校の育成に特化した陸軍航空士官学校が設立された。
1917年(大正6年)に准尉候補者が、1920年(大正9年)にはこれを改正した少尉候補者制度が設けられ、准尉・曹長・軍曹といった古参の准士官や下士官のうち優秀者を選抜試験を経て、陸軍士官学校・陸軍航空士官学校に入校のうえ将校教育を受けさせ、部隊指揮権を有する指揮官たる現役将校(少尉)に任官させる制度が存在した。なお、帝国陸軍には、帝国海軍における特務士官制度や軍令承行令に該当する制度は存在せず、「士官候補生出身の現役兵科将校」と「少尉候補者出身の現役兵科将校」は、制度上は対等に扱われた。一例を挙げると、少尉候補者出身の現役兵科将校も陸大の受験資格を有した(「陸軍大学校#選抜」を参照)。
これら現役兵科将校に任官出来る制度の他に、1883年(明治16年)からは官立の、1889年(明治22年)からは官立私立を問わず、中等学校卒業以上の学歴を有する者は一年現役制(一年志願兵)に、その後1927年(昭和2年)以降は甲種幹部候補生に志願し、陸軍予備士官学校などで1年間程度の教育を受け予備役将校になる途もあった。多数の人員が動員され総力戦となった第二次大戦においては、これら予備役将校の数は現役将校(陸士出身者)の数を上回っていた。さらに1939年には、これら予備役将校のうち特別志願将校(昭和8年勅令第12号により充用された者をいう。甲種幹部候補生またはそれ以前の一年志願兵出身者たる予備役将校であるも、志願して軍務に就く者)で選抜者を陸軍士官学校に入校のうえ教育を受けさせ、予備役将校から現役将校に役種を変更・任官させる特別志願将校学生制度が始まっており、上述の少尉候補者制度とともに多くの部隊長・隊長や佐官を輩出している。
兵は徴兵令、後には兵役法に基づく徴兵制度により充足された。平時において志願兵や有能な者は兵役期間が過ぎても除隊(満期除隊)せず、職業軍人として下士官となる途を選ぶ者もいた。高学歴者は在学中徴兵が猶予されるため[注釈 7]、卒業後に徴兵検査を受けることとなるが低学歴の徴集兵と較べ知識の差に加え年齢も上であることから、受け入れる側の部隊としても扱いにくく実際に入営することはあまりなかった。しかし日中戦争が長期化し戦線が拡大する1940年頃からは、兵員不足によりこういった高学歴者も実際に入営し兵役に就くようになった。中等学校卒業以上の学歴を有するものは、徴集(現役)後や召集(予備役・補充兵役)後に幹部候補生・特別幹部候補生・特別操縦見習士官などに志願し、将校や下士官になる途があり、特に学徒出陣時には多くの生徒・学生がこれらを利用した。大戦末期には幹部候補生への志願が半ば強制となったが、軍人以外の途を持つ者にとっては軍務に就く期間の長期化に繋がり、卒業後ある程度の年月を経て相応の社会的地位にある者には志願しない者も少なからずいた。