推古天皇
日本の第33代天皇、または第33代皇后、および初の女性天皇 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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推古天皇(すいこてんのう、554年5月21日〈欽明天皇15年乙巳朔癸丑: 4月9日〉- 628年4月15日〈推古天皇36年3月7日〉[注 1][注 2])は、日本の第33代天皇(在位:593年1月15日〈崇峻天皇5年12月8日〉 - 628年4月15日〈推古天皇36年3月7日〉)。
推古天皇 | |
---|---|
時代 | 飛鳥時代 |
先代 | 崇峻天皇 |
次代 | 舒明天皇 |
誕生 | 554年5月21日(欽明天皇15年乙巳朔癸丑) |
崩御 |
628年4月15日(推古天皇36年3月7日) 小墾田宮 |
陵所 | 大野岡上→磯長山田陵(科長大陵) |
漢風諡号 | 推古天皇 |
和風諡号 | 豊御食炊屋姫天皇 |
諱 | 額田部 |
別称 |
豊御食炊屋姫尊 豊御食炊屋比売命 炊屋姫尊 |
父親 | 欽明天皇 |
母親 | 蘇我堅塩媛 |
子女 |
菟道貝蛸皇女 竹田皇子 小墾田皇女 鸕鶿守皇女 尾張皇子 田眼皇女 桜井弓張皇女 |
皇居 |
豊浦宮 小墾田宮 |
最初の天皇号使用者(異説あり) 史上初の女性天皇 | |
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日本史上最初の女帝とされる[注 3]。欽明天皇と蘇我堅塩媛の娘として生まれ、諱は額田部王(ぬかたべ)。和風諡号は豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと、『日本書紀』による。『古事記』では豊御食炊屋比売命という)である。炊屋姫尊とも称される。漢風諡号の「推古天皇」は代々の天皇と共に淡海三船によって名付けられたとされる[注 4]。
成長した後、異母兄である渟中倉太珠敷皇子(後の敏達天皇)の妻となった。敏達天皇の崩御後、同母兄の用明天皇が即位したが、その治世は2年ほどの短命に終わった。用明天皇の治世中より帝位を望んでいた穴穂部皇子を擁立する動きが出ると、額田部皇女は穴穂部皇子の誅殺を命じ彼に組した物部守屋も滅ぼした。その後、蘇我馬子と共に泊瀬部皇子(崇峻天皇)を擁立したが、即位後の崇峻天皇と蘇我馬子は激しく対立し、馬子によって殺害された(592年)。翌年、群臣の推戴を受け、額田部皇女が天皇として即位した(推古天皇)。
彼女の治世は日本で本格的に仏教が興隆していく時代であり、初の遣隋使(一般に西暦600年とされる)が派遣されて、中華王朝との外交関係の構築が行われた時代でもある。また、彼女は厩戸皇子(聖徳太子[注 5])を皇太子とした。聖徳太子はその後の日本で模範たるべき伝説的な人物として語り継がれることになる。厩戸皇子は推古天皇の存命中に薨去(622年)し、その後に蘇我馬子も薨去した(626年)。推古天皇の崩御に際し、その後継者として田村皇子と山背大兄王が候補に挙がり、群臣の意見は割れた。推古天皇は田村皇子を支持したとされ、最終的に蘇我蝦夷(蘇我馬子の息子)も推す田村皇子が即位した(舒明天皇、629年)[2]。