アインザッツグルッペン裁判
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アインザッツグルッペン裁判(アインザッツグルッペンさいばん、Einsatzgruppen Trial)は、1947年9月29日から1948年4月10日にかけてアメリカ合衆国がニュルンベルクで行ったナチ戦犯法廷。戦時中にユダヤ人や民間人への虐殺をおこなったアインザッツグルッペン(以下グルッペン)の指揮官を被告人としたニュルンベルク継続裁判の8つ目の裁判である。
ニュルンベルク裁判とは異なり、アインザッツグルッペン裁判は、連合国4か国によるものではなく、アメリカによる軍事裁判であった。この裁判は公式には、アメリカによるオットー・オーレンドルフらへの裁判と呼ばれた。
占領したソ連領内においてアインザッツグルッペンの犯罪行為に対して、アインザッツグルッペンの指揮官並びにSDの元SS指導者24人が起訴された。アインザッツグルッペンは開戦以来ソ連において、ソ連の知識階級並びにユダヤ人の知識階級の殺害任務を拝領していた。独ソ戦開戦の3か月もたたずに、東部戦線におけるアインザッツグルッペンによる殺人行為がエスカレートし、遅くとも1941年10月には、ユダヤ人を老若男女問わず射殺していた。
戦争捕虜や、ジプシー、精神病患者、人質に取った一般市民ですらも、アインザッツグルッペンの犠牲となった[1]。アインザッツグルッペンによる犠牲は1941年6月から1943年までで、少なくとも60万、別の陳述では100万ともされる[2] 検察はアインザッツグルッペン報告を基に、犠牲者を100万としている[3]。
裁判の判決では無罪判決はなかった。14人の被告が死刑判決を受け、2人は、終身刑、5人は10年から20年の懲役刑を受けた。1人の被告は審理開始時に自殺し、1人は病気のため裁判にかけられず、1人は未決拘留の期間を加算された後に釈放された。冷戦が進む中で、1951年初め、ジョン・J・マクロイはランズベルク刑務所に拘留されている14人の死刑囚について、戦犯恩赦諮問委員会の要望により、10人を懲役刑に変更した。それによって、4人の死刑囚は終身刑に変更され、6人の死刑囚は、10年と25年に減刑された。1953年5月に、3人の受刑者が釈放され、これによって本裁判で死刑執行されなかった者については釈放が完了した。