アーディド
ファーティマ朝第14代カリフ / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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アブー・ムハンマド・アブドゥッラー・ブン・ユースフ(アラビア語: أبو محمد عبد الله بن يوسف, ラテン文字転写: Abū Muḥammad ʿAbd Allāh b. Yūsuf, 1151年5月9日 - 1171年9月13日)[1]、またはラカブ(尊称)でアル=アーディド・リッ=ディーニッラーフ(アラビア語: العاضد لدين الله, ラテン文字転写: al-ʿĀḍid li-Dīn Allāh,「神の信仰を強固にする者」の意)は[1][2]、第14代で最後のファーティマ朝のカリフである(在位:1160年7月23日 - 1171年9月13日)。
アーディド العاضد لدين الله | |
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ファーティマ朝第14代カリフ | |
在位 | 1160年7月23日 - 1171年9月13日 |
出生 |
1151年5月9日 ヒジュラ暦546年ムハッラム月20日 カイロ |
死去 |
1171年9月13日 ヒジュラ暦567年ムハッラム月10日 カイロ |
子女 |
ダーウード・アル=ハーミド(英語版) アブル=フトゥーフ イスマーイール |
王朝 | ファーティマ朝 |
父親 | ユースフ・ブン・アル=ハーフィズ |
宗教 | イスラーム教イスマーイール派 |
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アーディドは2人の前任者たちと同様に幼くしてカリフに即位し、ワズィール(宰相)の地位を占めるさまざまな有力者の傀儡としてその治世を過ごした。アーディドを即位させたワズィールのタラーイー・ブン・ルッズィーク(英語版)は1161年に宮廷の陰謀の犠牲になり、息子のルッズィーク・ブン・タラーイー(英語版)が後任となった。しかし、1163年に上エジプトの総督を務めていたシャーワルの手で打倒され、そのシャーワルも数か月後には配下のディルガーム(英語版)によって追放された。
カイロにおける絶え間ない権力闘争はファーティマ朝政権を弱体化させ、十字軍が建国したエルサレム王国とスンナ派を信奉するザンギー朝の支配者のヌールッディーンはエジプトの征服を目指すようになった。十字軍が何度かにわたってエジプトへ侵攻する一方でヌールッディーンはワズィールの地位の奪還を試みるシャーワルを支援し、将軍のシールクーフとともにエジプトへ送り返した。そのシャーワルはディルガームの打倒に成功したものの、すぐにシールクーフと対立し、1169年1月にシールクーフの陣内で殺害された。そして新たにワズィールに任命されたシールクーフもわずか2か月後に死去し、シールクーフの甥のサラーフッディーン(サラディン)が後を継いだ。
当初サラーフッディーンはアーディドに対し融和的な態度を見せていたが、次第にファーティマ朝政権の解体を試みるようになった。そしてこれに反発したファーティマ朝の黒人軍団が反乱を起こしたものの、敗れて追放され、権力基盤を固めたサラーフッディーンはほとんどの地方の総督に一族の者を任命した。さらに文民官僚もサラーフッディーンの新体制の下に組み込まれ、アーディドは儀礼的な役割からも遠ざけられた。政権内の人事をスンナ派の人物で固め、宗教儀礼もファーティマ朝が信奉するイスマーイール派の様式からスンナ派の様式に変えていったサラーフッディーンは、1171年9月10日にアッバース朝の宗主権を公に宣言し、ファーティマ朝を廃絶した。アーディドはその数日後に死去し、政権を失ったイスマーイール派の共同体もサラーフッディーンが築いたアイユーブ朝政権から迫害を受けた。そしておよそ1世紀後にイスマーイール派はエジプトから姿を消した。