ウラジーミル・ナボコフ (政治家)
ウィキペディア フリーな encyclopedia
ウラジーミル・ドミトリエヴィチ・ナボコフ(ロシア語: Влади́мир Дми́триевич Набо́ков, ラテン文字転写: Vladimir Dmitrievich Nabokov, V. D. Nabokov; 1870年7月21日(旧暦7月6日) – 1922年3月28日)は、ロシアの自由主義者。刑法学者・政治家・ジャーナリスト。自由主義政党の立憲民主党(カデット)の幹部として活動し、国会議員や第一次臨時政府官房長、クリミア地方政府司法大臣などを歴任した。
ウラジーミル・ドミトリエヴィチ・ナボコフ Владимир Дмитриевич Набоков | |
---|---|
ウラジーミル・ナボコフ (1914年) | |
生年月日 | 1870年7月21日(旧暦7月6日) |
出生地 | ロシア帝国、モスクワ |
没年月日 | (1922-03-28) 1922年3月28日(51歳没) |
死没地 |
ドイツ国 プロイセン自由州、ベルリン |
出身校 | サンクトペテルブルク大学法学部 |
前職 | 刑法学者 |
所属政党 | 立憲民主党 |
子女 | ウラジーミル・ナボコフ (作家) |
親族 |
ドミトリー・ニコラエヴィチ・ナボコフ(ロシア語版)(父) コンスタンティン・ナボコフ(ロシア語版)(弟) |
サイン | |
内閣 | ソロモン・クルイム(ロシア語版)内閣 |
在任期間 | 1918年 - 1919年 |
テンプレートを表示 |
ロシア革命時の自由主義勢力のなかでは最も著名な政治家の一人であったとされる[1]。また、『ロリータ』で知られる作家ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・ナボコフの父でもあり、その創作活動にも大きな影響を与えた[2]。
ナボコフは、ロシア帝国の貴族ドミトリー・ニコラエヴィチ・ナボコフ(ロシア語版)の子として生まれ[3]、長じてからは刑法学者となり帝立法学校(英語版)の教職を務めた[4]。やがて反体制運動に参加するようになり、立憲制の実現を求める政党・立憲民主党(カデット)が結成されると、その中央委員会副議長となる[5]。第一国会(ドゥーマ)議員選挙に当選し、議会で帝政政府の専制を強く批判した[6]。
ロシア二月革命の際には、ロマノフ朝の滅亡を決定したミハイル大公の帝位放棄宣言を起草したことで知られる[7][8]。革命後には官房長[注釈 1]として第一次臨時政府に参加した[9][10]。また、全ロシア憲法制定会議(英語版、ロシア語版)(国民議会)選挙の選挙管理委員会副委員長として選挙の準備に携わった[11]。コルニーロフ将軍のクーデターが失敗した後は、カデットを代表して他勢力と組閣の交渉にあたり[12]、新たに設置された「ロシア共和国会議(英語版)」(予備議会)の幹部となっている[13]。
十月革命後、対立するボリシェヴィキが政権を握ると、クリミアへ逃避し、現地の地方政府の司法大臣を務めた[14]。地方政府の崩壊後、ベルリンに亡命し[15]、ロシア語新聞『舵(ロシア語版)』の発刊を行っている[16]。しかし、1922年、友人の政治家パーヴェル・ミリュコーフを暗殺者からかばって射殺された[17]。