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15世紀から19世紀にかけて現在のカザフスタンに存在したテュルク系イスラム王朝 ウィキペディアから
カザフ・ハン国(カザフ・ハンこく、カザフ語: قازاق حاندىعى、Қазақ хандығы、Qazaq xandığı、ロシア語: Казахское ханство、Kazakhskoye khanstvo)は、15世紀から19世紀にかけて現在のカザフスタンに存在したテュルク系イスラム王朝。ジョチ・ウルスのトカ・テムル家の子孫が建てた。
1446年、ウズベクのアブル=ハイル・ハンがシル川中流域のオアシス都市スグナク、サウラン、ウズゲンドを占領すると、もともとシル川中流域を支配していた青帳ハン国(オルダ・ウルス)の残党(当時の史料ではこれをカザフ・ウズベクと呼んでいた)がトカ・テムル家のケレイとジャニベクを擁してアブル=ハイル・ハンに背き、モグーリスタンの辺境に移住した[1]。
1468年、アブル=ハイル・ハンが没すると、ウズベクのウルスは分裂状態に陥り、その多くはモグーリスタン辺境のカザフのもとへ流れ、ケレイとジャニベクの両ハンを君主とあおいでカザフ・ハン国を形成、その数は20万に達した[2]。
1508年から1509年にかけてシャイバーニー朝のムハンマド・シャイバーニー・ハンが侵攻してきたが、ハンのブルンドゥク(在位:1473年/1474年 - 1511年)はその撃退に成功した。
ウズベク(シャイバーニー朝)がマー・ワラー・アンナフルへ移住すると、カザフはキプチャク草原の遊牧民を麾下におさめ、カーシム・ハン(在位:1511年 - 1518年)の時代に強盛となった。彼らはシル川中流域やセミレチエ地方のオアシス都市を支配下に入れ、東西トルキスタン(旧チャガタイ・ハン国領)をしばしば攻撃して周囲の諸勢力に恐れられた。
1598年にシャイバーニー朝のアブドゥル=ムウミン(在位:1598年)が暗殺されると、カザフ・ハン国はその混乱に乗じてシャイバーニー朝に侵攻したが、シャイバーニー朝のピール・ムハンマド2世によって撃退された。
18世紀前半までにカザフ・ハン国は政治的な統一を失い、セミレチエ地方の大ジュズ、カザフ草原中部の中ジュズ、カザフ草原西部の小ジュズという部族連合体が形成されていた。この頃のカザフはたびたび東のジュンガルの侵攻に遭っており、特に1723年の侵攻は「大いなる災厄(アクタバン・シュブルンドゥ)」と呼ばれるほどの大打撃を被った。
1730年、小ジュズのアブル=ハイル・ハン(在位:1716年 - 1748年)は、当時着々と東方に進出してきたロシア帝国に使者を送り、服属を願い出た。これにならって他のジュズのハンも服属を表明し、ジュンガルの脅威に備えた。
1820年代に入ると、ロシア帝国はカザフ草原の安定化をはかるために、すでに権威を喪失していた小ジュズと中ジュズのハンに代わって直接統治を始めた。同じころ、新興のコーカンド・ハン国に備えるべく、セミレチエ地方の大ジュズもロシア統治を受け入れた。こうしてロシア帝国に組み込まれたカザフ草原は、アクモリンスク州・セミパラチンスク州・セミレチエ州・ウラリスク州・トゥルガイ州・シルダリア州の6州に区分され、その東半分は1891年にステップ総督府の管轄下に置かれた(セミレチエ州は1897年にトルキスタン総督府へ移管)。
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