ヘーチマン国家
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この項目では、ウクライナ・コサックの国家について説明しています。1848年から1849年に存在した国家については「ウクライナ=コサック国」を、1918年に成立したヘーチマン政府については「ウクライナ国」をご覧ください。 |
ヘーチマン国家(ウクライナ語: Гетьма́нщина[1])は、1649年から1782年の間にドニプロ・ウクライナに存在したコサックの国家である。ポーランド・リトアニア共和国における最大のコサック反乱であるフメリニツキーの乱によって誕生した。国家の君主であるヘーチマンによって統治されたことから、ヘーチマン国家と呼ばれた。正式な国号はザポロージャのコサック軍(Військо Запорозьке)である。
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公用語 | ウクライナ語 |
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首都 | チヒルィーン(1648年-1676年) バトゥールィン(1663年-1708年) フルーヒウ(1708年-1764年] |
通貨 | 東ヨーロッパの全通貨 |
現在 | ウクライナ ロシア モルドバ ベラルーシ |
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- ヘーチマン国家
「ザポロージャのコサック軍」 - Військо Запорозьке (ウクライナ語)
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←1649年 - 1786年 →
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→(国旗) (国章) - ヘーチマン国家の領域(1654年)
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1654年以後、ロシア・ツァーリ国とロシア帝国の保護下に置かれ、1667年にコサック内戦とロシア・ポーランド戦争の結果、アンドルソヴォ条約でロシアとポーランドの間に分割された。1699年にポーランド支配下の右岸ウクライナにおいてコサックが廃止されると、ロシア支配下の左岸ウクライナにおいて存続し、ポーランド・オスマン帝国とクリミア・ハン国からロシアを守る役割を果たした。
1709年に大北方戦争の際、ロシアから離れてスウェーデンの保護を受けようとしたが失敗、18世紀中にロシア政府の政策により政治的・経済的の独立を失った。1764年にロシアのエカチェリーナ2世はヘーチマン制を廃止、翌1765年に国土はロシアの小ロシア県に編成され、1786年にコサック連隊制が廃止となった。