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サアーダトゥッラー・ハーン2世(Sa'adatullah Khan II, 生年不詳 - 1744年7月4日)は、南インドのカルナータカ太守(在位:1742年 - 1744年)。ムハンマド・サイイド(Muhammad Sayyid)とも呼ばれる。
1742年10月13日、カルナータカ太守サフダル・アリー・ハーンは従兄弟ムルタザー・アリー・ハーンに殺害された。ムルタザー・アリー・ハーンは自身がカルナータカ太守であると宣言した[1]。
しかし、その幼い息子であるサアーダトゥッラー・ハーンは難を逃れ、マドラスのイギリス東インド会社の支持を得て、サアーダトゥッラー・ハーン2世として太守位を宣した。同時にデカン地方のニザーム王国も彼の正当性を支持し、カルナータカ地方政権の領土に歩兵20万と騎兵8万の軍を送った[1]。
1743年3月、ニザーム軍は首都アルコットを占領し、ムルタザー・アリー・ハーンを退け、サアーダトゥッラー・ハーン2世を即位させた。彼は幼少であったので、ホージャ・アブドゥッラー・ハーンが後見役としてニザームに任命された[2]。
ニザーム王国はカルナータカにおける権力を確立しようと、ティルチラーパッリのマラーター勢力を包囲し、8月29日にこれを占領した(ティルチラーパッリ包囲戦)[1][3]。
1744年3月、サアーダトゥッラー・ハーン2世の後見役であったホージャ・アブドゥッラー・ハーンが暗殺され、同月28日にアンワールッディーン・ハーンが新たな後見役となった[2][3]。
そして、同年7月4日にサアーダトゥッラー・ハーン2世も暗殺され[4]、アンワールッディーン・ハーンがニザームにより新太守に任命された[2]。こうして、カルナータカ太守はナワーヤト朝に代わり、アンワーリーヤ朝が世襲するところとなった。
これに激怒したのがナワーヤト家のチャンダー・サーヒブだった。彼はサアーダトゥッラー・ハーン2世の義理の叔父で、ドースト・アリー・ハーンの娘婿である自分こそが新太守にふさわしいと思っていた。これにより、ナワーヤト朝とアンワーリーヤ朝との対立が生じることとなり、第二次カーナティック戦争勃発の原因の一つとなった。
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