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シモン・ピーテルスゾーン・フェレルスト(Simon Pietersz. Verelst、1644年 - 1721年ころ)は、オランダ出身の画家である。1668年からイギリスで働き、肖像画や静物画を描いた[1]。
デン・ハーグで生まれた。多くの画家を出した一族の出身で、父親のピーテル・ヘルマンスゾーン・フェレルスト(Pieter Hermansz. Verelst: c.1618-c1678)は、オランダ、ドルトレヒト生まれで画家になり、兄弟のヘルマン・フェレルスト(Herman Verelst、1641-1702)とヨハネス・フェレルスト(Johannes Verelst: 1648-1734)、甥のコルネリス・フェレルスト(Cornelis Verelst: 1667?–1734)、姪のマリア・フェレルスト(Maria Verelst: 1680–1744)も画家になった。
父親から絵を学び1663年にデン・ハーグの画家の組合「Confrérie Pictura(絵の兄弟信心会)」のメンバーになった[1]。1668年にチャールズ2世の治世下のロンドンに移った。バッキンガム公がフェレルストのパトロンになり、肖像画家、静物画家として人気になった[2] 。1683年にウィーンで働いていた兄のヘルマンがロンドンで働くようになり、1691年に弟のヨハネスもロンドンに移って来た。
シモン・ピーテルスゾーン・フェレルストが肖像画を描いた人物にはプリンス・ルパート・オブ・ザ・ラインがいる。
精神病の発作を起こすようになり、自らを「花の神(the God of Flowers".)」と称した。18世紀の初めにオランダの画家たちの伝記を著わしたヤコブ・カンポ・ワイエルマン(Jacob Campo Weyerman: 1677-1747)によれば、1709年にはロンドンのストランドのWilliam Lovejoyという画商の家に住む[3]、暴力を振るわないように監禁されていたとされる。後に精神病院に入院し退院したともされ、ロンドンで亡くなったがその時期は不明である。
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