シャルル・エチエンヌ
ウィキペディア フリーな encyclopedia
シャルル・エチエンヌ(仏: Charles Estienne, 1504年 - 1564年)は、フランスの医学博士(解剖学者)、作家、出版業者。
彼は出版業者エチエンヌ一族の出身で、アンリ・エチエンヌの三男に当たり、シモン・ド・コリーヌの娘婿に当たる。彼は工房で少し活動した後、パリでヴェサリウスとともにヤコブス・シルウィウスに附いて医学を学んだ。続いて彼は友人である外科医にして木版画工のエチエンヌ・ド・ラ・リヴィエールとともに、図解された解剖学書の出版に従事した。
彼は自身が出版業者となるのに先立って、古代の言語や医学の研究に専念した。ラザル・ド・バイフは彼に息子の教育を任せ、その肩書きでドイツやイタリアの大使館に随行させた。ヴェネツィアでは、パオロ・マヌーツィオと親しくなった。
1542年にはパリ大学の医学部の Docteur Régent となっており、1550年まで医師として活動した。彼はいくつかの重要な解剖学的発見をしている。骨学の分野では栄養管を発見し、その物理的役割も理解していた。神経学の分野では、三叉神経、横隔膜の神経、迷走神経の交換連鎖などを記述した。
1550年に兄ロベール・エチエンヌがジュネーヴへ亡命した結果、家業の印刷事業を引き継がざるをえなくなった。1552年の『フランス街道案内』のように当時よく売れた作品なども出版したが、1561年には彼の債権者たちの申し立てによりシャトレで投獄され、1564年に獄中死した。