スィルヴィア・ライケンス
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スィルヴィア・メアリー・ライケンス(Sylvia Marie Likens, 1949年1月3日 – 1965年10月26日)は、アメリカ人の少女。彼女の両親が世話を依頼したガートルード・バニシェフスキー(Gertrude Baniszewski)とその子供たちから、虐待と拷問の責め苦を受けて殺された。ガートルードは、世話と養育の義務を放棄してスィルヴィアを虐待し、拷問し、最終的に死に至らしめた。スィルヴィアはこの者たちから蔑ろにされ、侮蔑され、性的な辱めを受け、殴打され、飢えさせられ、痛め付けられ、火傷を多数負い、栄養失調および脱水症状に陥った。スィルヴィアに対する虐待と拷問は三ヵ月間に亘って続いた。1965年10月26日、スィルヴィア・ライケンスの遺体を警察官が発見した[2]。死後に行われた病理解剖で判明したのは、スィルヴィアの全身は150もの傷で覆われており、その中には打撲の痕、火傷の痕、熱湯をかけられた痕も含まれ、皮膚は糜爛が発生し、ただれていた。スィルヴィアと一緒にガートルードの家に同居していた妹のジェニー・ライケンスは、ガートルードから脅迫され、姉に対する虐待に参加させられたこともあった[3]。剖検の結果、スィルヴィアの死は、脳の腫れ、脳内出血、硬膜下血腫、広範囲に亘る皮膚の損傷に伴う末梢循環不全に加え、重度の栄養失調を併発したことによる「殺人」と断定された[4]。
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スィルヴィア・ライケンス Sylvia Likens | |
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生誕 |
Sylvia Marie Likens (1949-01-03) 1949年1月3日 アメリカ合衆国インディアナ州レバノン |
死没 |
1965年10月26日(1965-10-26)(16歳) インディアナ州インディアナポリス |
死因 | |
墓地 |
Oak Hill Cemetery[1] 北緯40.0484度 西経86.4539度 / 40.0484; -86.4539 |
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ガートルード・バニシェフスキー、長女のポーラ・バニシェフスキー、長男のジョン・バニシェフスキー、隣人のコイ・ハバード(Coy Hubbard)とリチャード・ホッブス(Richard Hobbs)は、スィルヴィア・ライケンスに対する拷問と殺人の罪で裁判にかけられ、1966年5月に有罪判決を受けた。この裁判の検察官、リローイ・ニュー(Leroy New)は、この事件を「これまでインディアナ州で起こった事件の中で、最も極悪非道なもの」と表現した[5]。ガートルード・バニシェフスキーの弁護人を務めたウィリアム・C・アーベッカー(William C. Erbecker)は、スィルヴィア・ライケンスが受けた拷問について、「犬に対してもしないであろう、目に余る所業」と表現した。八時間に亘る審議を経て、陪審員はガートルード・バニシェフスキーに対し、「第一級殺人」(The First Degree Murder)で「有罪」との評決を下した。ガートルードは終身刑を宣告されたが、1985年に仮釈放となった。長女のポーラは「第二級殺人」(The Second Degree Murder)で有罪となり、1972年に釈放となった。コイ・ハバードとリチャード・ホッブスの両名は、インディアナ矯正施設(The Indiana Reformatory)で過ごしたのち、1968年2月27日に仮釈放が認められた。
ジョン・バニシェフスキーとコイ・ハバードの弁護人を務めたフォレスト・ボウマン・ジュニア(Forrest Bowman Jr.)は、「異常な事件だ。これに比肩するものを、私は知らない」と語った[5]。
インディアナ警察署の捜査官は、35年間の勤務の中で、「これまで見てきた中で、最も惨たらしい事件だ」と述べた[6]。