セプティミウス・セウェルスの凱旋門
ウィキペディアから
ウィキペディアから
セプティミウス・セウェルスの凱旋門(ラテン語: Arcus Septimii Severi)はフォロ・ロマーノの北西端にある白い大理石製の凱旋門で、皇帝セプティミウス・セウェルスとその息子カラカラとゲタの第6次パルティア戦争(194年/195年と197年から199年までの遠征)での勝利を記念して紀元203年に建設された。
所在地 | フォルム・ロマヌム |
---|---|
建設時期 | 203年 |
建設者 | 第20代皇帝セプティミウス・セウェルス |
建築様式 | 凱旋門 |
関連項目 | ローマの古代遺跡一覧 |
セプティミウス・セウェルスの死後、カラカラとゲタは共同皇帝として即位したが、212年にカラカラがゲタを暗殺した。このため、ゲタを記念した彫刻は建築物や記念碑からことごとく削除された。当然ながらこの凱旋門でもゲタに関する部分は削り取られている。
この凱旋門はトラバーチンの基礎の上に建ち、元々は古代のフォルムの地面から階段で昇るようになっていた。中央のアーチ道は半円形のヴォールトで全体を格間で飾っている。そして、両脇のアーチ道との間に側部開口部が通じている。このような特徴は近代の凱旋門でも模倣されている。
3つのアーチ道は橋脚で支持されており、その前面は台座の上のコンポジット式オーダーの柱になっている。勝利の女神が三角小間に彫刻されている。南の橋脚には記念碑の頂上まで続く階段があり、そこに兵士を従えた皇帝と2人の息子が四頭立て戦車(クアドリガ)に乗っている様子が描かれている。
この凱旋門はカンピドリオの丘の麓に建っている。そしてアンコーナにあるトラヤヌスのアーチのように、階段で開けた場所へ続いていた。4世紀までにたび重なる洪水でフォルムの地面のレベルが上がって階段が埋まり、門を平坦な道が通るようになった。大量の岩屑やシルトが周辺の丘から流れ込み、凱旋門の基部は完全にそれらで埋まった。中世の車輪や近代初期の交通によってもたらされた損傷は台石の浮き彫りの上の柱の基部に今も残っている。
中世になってもこの低地はしばしば洪水に見舞われ土砂が堆積していったため、カナレットが1742年にこの凱旋門を描いたとき、地面の上には凱旋門の上半分しか出ていなかった(右上の絵参照)。この凱旋門の保存状態がよいのは、これをキリスト教の教会の一部に組み入れていたためである。教会が他の場所に移ったときも凱旋門はその教会の財産として存続し、他の建築物の建設のために撤去されなかった。
315年に、フォルム・ロマヌムの反対側に建てられたコンスタンティヌスの凱旋門は、セプティミウス・セウェルスの凱旋門に大きな影響を受けている。
南東面と北西面の碑文内容は同一である
※碑文で斜体部分「P(atri) P(atriae) / OPTIMIS FORTISSIMISQUE PRINCIPIBUS」はカラカラ帝の弟で共同皇帝であったゲタ帝が暗殺された後に、ダムナティオ・メモリアエが行われたため書き換えられた部分を示す。元の文は「P(ublio) SEPTIMIO L(ucii) F(ilio) GETAE NOB(ilissimo) CAES(ari) = プブリウス・セプティミウス, ルキウスの息子, ゲタ・高貴なカエサル」であった[2]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.