トゴン・テムル
モンゴル帝国(元朝)の第15代皇帝(大ハーン) / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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トゴン・テムル(モンゴル語:ᠲᠤᠭᠤᠨᠲᠡᠮᠤᠷ, ラテン文字転写: Toγon Temür)は、モンゴル帝国の第15代カアン(元としては第11代皇帝)。廟号は恵宗であるが、明による追諡である順帝の名称が用いられることが多い。『元史』順帝紀などでは妥懽帖睦爾、清代以降は托歓特穆爾と記される。尊号はウカアト・カアン(中期音、モンゴル語:ᠤᠬᠠᠭᠠᠲᠤ ᠬᠠᠭᠠᠨ, ラテン文字転写: Uqaγatu Qa'an、近現代音ではオハート・ハーン)で、『蒙古源流』『アルタン・ハーン伝』等ではオハート・トゴン・テムル・ハーン(Uqaγatu Toγan Temür Qaγan)、トガン・テムル・ウハート・ハーン(Toγan Temür Uqaγatu Qaγan)と呼ばれている[1]。
概要 トゴン・テムル ᠲᠤᠭᠤᠨᠲᠡᠮᠤᠷ, 在位 ...
トゴン・テムル ᠲᠤᠭᠤᠨᠲᠡᠮᠤᠷ | |
---|---|
モンゴル帝国第15代皇帝(カアン) | |
在位 |
至順4年6月8日 - 至正30年4月28日 (1333年7月19日 - 1370年5月23日) |
戴冠式 |
至順4年6月8日 (1333年7月19日) 大都 |
別号 | ウカアト・カアン |
出生 |
延祐7年4月17日 (1320年5月25日) |
死去 |
至正30年4月28日 (1370年5月23日) 応昌府 |
配偶者 | ダナシリ |
バヤン・クトゥク | |
オルジェイ・クトゥク | |
ムナシリ | |
子女 | アユルシリダラ、トグス・テムル |
家名 | クビライ家 |
父親 | コシラ |
母親 | マイラダク |
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概要 恵宗 奇渥温妥懽帖睦爾, 王朝 ...
恵宗 奇渥温妥懽帖睦爾 | |
---|---|
元 | |
第11代皇帝 | |
恵宗(『仏郎国貢馬図』)より | |
王朝 | 元 |
都城 | 大都→上都→応昌府 |
諡号 |
宣仁普孝皇帝 順皇帝(明洪武帝による) |
廟号 | 恵宗 |
陵墓 | 起輦谷(モンゴル高原) |
年号 |
元統 : 1333年 - 1335年 至元 : 1335年 - 1340年 至正 : 1341年 - 1370年 |
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至正28年(1368年)に大都を放棄してモンゴル高原に撤退したため、『元史』では同年に帝位を失い、元は滅亡したとして扱われる。一方、モンゴル側ではそれ以降も「大元」を称しており[注 1]、トゴン・テムルの治世に「元が滅亡した」とするのは明側の一方的な史観に過ぎない[3]。ただし、至正28年の大都失陥自体はモンゴル側でも重大な歴史的事件として見なされており、多くのモンゴル年代記にはトゴン・テムルが大都を失ったことを歌った「恵宗悲歌 (英語: Lament of Toγon temür)」が所収されている[4]。