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ネルチンスク条約(ネルチンスクじょうやく、簡: 尼布楚条约、繁: 尼布楚條約、露: Нерчинский договор)は、1689年に康熙帝時代の清朝とピョートル1世時代(摂政ソフィア・アレクセーエヴナ)のロシア・ツァーリ国との間で結ばれた、両国の境界線などについて定めた条約[1]。
清とヨーロッパ国家との間に結ばれた初めての対等な条約で[1]、その内容は満洲(現・中国東北部)での国境を黒竜江・外興安嶺(スタノヴォイ山脈)の線に定めるというものであった。
17世紀中頃からヴァシーリー・ポヤルコフやエロフェイ・ハバロフなどロシア人の探検隊が黒竜江・アルグン川より南下(後の南下政策)するようになり、黒竜江沿いにはアルバジンの要塞が築かれた。
このため清と朝鮮の連合軍がたびたび「清露国境紛争」と呼ばれている討伐を行った。清は逃亡者の引き渡しをロシアに求め、さらにロシア人の撤退を求めた。しかし、ロシアはこれを拒否した。
清が討伐軍を本格的に動かし始めたため、ロシアの摂政ソフィア・アレクセーエヴナと顧問のヴァシーリー・ゴリツィンはフョードル・ゴロヴィンを特使として派遣し、1689年にネルチンスクで清のソンゴトゥと交渉を開始した。
ロシアは清との交易を望み、清は清・ジュンガル戦争(第一次、1687年 - 1697年)中であったことからモンゴルのジュンガルを孤立させることを望んだため、利害関係が一致し、交渉が成立した。
両国間では言語が異なるため条約の原文はラテン語、ロシア語、満洲語で二部ずつ作成され[2]、清側の通訳兼アドバイザーとして2人のイエズス会員トマス・ペレイラ(Thomas Pereira、徐日昇)およびジャン・フランソワ・ジェルビヨン(Jean-Francois Gerbillon、張誠)が交渉にあたった。清側の満洲語をイエズス会士がラテン語に通訳し、ロシア側のポーランド人通訳がラテン語をロシア語に通訳するという形で交渉が行われた。
対等の条約ではあったが、清にとっては有利なものとなった。何故なら、ロシア側にとっての念願であった不凍港を獲得できなかったからである。
ロシアでは、2度のクリミア遠征(1687年、1689年)失敗とネルチンスク条約での譲歩が、ソフィア・アレクセーエヴナの摂政政府の威信を失墜させ、9月にゴリツィンはシベリアへ流罪となり、ソフィアは修道院に幽閉された。ピョートルの母ナタリヤ・ナルイシキナが実権を回復し、1694年に死去するまで国政を運営した。その後、ピョートルが親政を開始した。
一方で、清は、ロシア関係の事務をモンゴルや内陸アジアの朝貢を扱う理藩院で行うなど、ロシアを朝貢国としてみなしていた。
その後、1858年のアイグン条約で黒竜江が両国の境界線となり、1860年の北京条約でネルチンスク条約は廃棄された[1]。
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