コメント 「保守」の言論空間では、一部の新聞・雑誌や通俗的な歴史本にて、「虐殺」または「事件」の存在を否定する主張が見られるものの、空間内にとどまっており空間の「外」との「論争」には至っていない。また、「肯定派」と「否定派」は共通の活動(や議論)の場所を持っておらず、それぞれの場で互いの研究や主張を批判することはあっても、「論争」がおこる状況にはない。したがって、現状「どんな事件か自体」についての論争は「存在しない」といっても過言ではない状況にある。--花蝶風月雪月花警部 (会話 ) 2023年12月12日 (火) 14:45 (UTC)
返信 これはその通りだと思います。それだけにそうしたものに言及・紹介するのは本来Wikipediaにはあまりそぐわないと思います。--TEN (会話 ) 2023年12月13日 (水) 16:22 (UTC)
デタラメ。--Konnnitihaseizinnnosabu (会話 ) 2023年12月27日 (水) 13:47 (UTC)
論争が存在しないならそれぞれの出張を載せても論争に参加することにはならないといますが。それとKonnnitihaseizinnnosabuさんは「デタラメ」とだけ返信しても意味不明ですので返信は具体的にお願いします。--フューチャー (会話 ) 2023年12月28日 (木) 05:27 (UTC)
返信 個人的な意見としては、それぞれの主張を載せるというのは、以前にも書いた通り実質的にWikipedia記事を論争の場として使うのに等しいものだと思うので、基本的には言及しない方が良いと考えます。花蝶風月雪月花警部さんの表現を借りて言えば「『肯定派』と『否定派』は共通の活動(や議論)の場所を持っていない」わけですが、Wikipedia上であたかも議論が成立しているかのように両論併記してしまうのは適切でないように思います。一応、現在の南京事件 の記事で使われているものの中からそうした議論についての出典も確認はしてみたのですが、敢えて論争に言及するとすれば「犠牲者数」をそれぞれがどのように算出しているか、について言及するのが良いのではないかと思いますが自信はないです。
まず、論壇誌等での議論においても、実際のところ「否定」されているのは主として中国政府の公式見解となっている「30万人」や数万人~20万人という犠牲者数であって、事件そのものを否定する見解は少なくとも主流でなさそうです。原剛 「南京大虐殺はあったのか」『昭和史20の争点 日本人の常識』(2003)では原剛氏は現代の研究では「①の三〇万人説や②の二〇万人以上説、⑤の虐殺否定説(まぼろし説)は、以下に述べるように実証性・論理性に欠けていることが判明してきた」と要約しています。本文のあとがきによれば月刊誌『諸君!』2003年7月号に掲載された記事を加筆訂正・改題したものということなので、いわゆる保守系の「場」においての議論の要約として参考になるかとは思います。加えて、新しい歴史教科書をつくる会の発起人の藤岡信勝 『自由主義史観とは何か』(1997)でもp. 34で「今日、南京事件の存在自体を否定する者はほとんどいない。しかし、犠牲者数については長い論争があり...」となっていて、やはり虐殺そのものを否定する見解が極めて少数の例外的な立ち位置であることはこうした「場」においても基本認識と言えるように思います。
一方で『南京大虐殺否定論13のウソ』(1999)に掲載されている笠原十九司 「『数の論争』のトリック」で主張されている内容は「否定派が仕掛ける『数の論争』のトリックは、今となっては数の問題に正確な結論は出せないということを利用して、数の問題が解明されなければ南京大虐殺も『まぼろし』『虚構』であるかのごとく思わせ、実態認識にいたろうとする思考の道を妨げるところにある。」といった具合で、「否定派」の議論の内容というより手法について批判を向けており、この両者は歴史学的な意味での「論争」をしているわけではないんですよね。
実際見てみると南京事件が「どんな事件か自体」についてはそれぞの「場」内部においてさえ争われてはいないように思えます(そしてこれらの多くは、「信頼できる情報源」として取り扱うのは難しいようにも思います)。端的にいってこれらについて解説・紹介するのは基本的に南京事件自体についての説明にはならないと思います。--TEN (会話 ) 2023年12月28日 (木) 18:58 (UTC)
>教科書について
それは当たり前です。しかし、日本国の場合、歴史教科書と政府見解は一致しています。人間は多かれ少なかれ自分の属する国家の見解の影響を受けるはずなので、日本語使用者が最も多い日本国政府の見解の影響を受けている可能性が高いと思います。また、日本語使用者自身の多くが、日本国で教育されています。Wikipediaの記述の変化から日本国の歴史教科書の改変はある程度予想できます。
※実際、前々回の中学歴史教科書で「南京大虐殺」が完全少数派となると、ここの名前も2010年には「南京事件」に転換されました。その後、いろいろな箇所で「南京事件」と教わった世代が浸透しているため、学界などでも「南京大虐殺」は完全少数派化してる節があります。本来は、通説に基づいて教科書が編纂されますが、日本国の公民・歴史教科書の場合は違うようです。例えば、昭和30年代から公民教科書が当時の日本国政府が発表した学習指導要領の規定を無視する形で「日本国憲法三原則説」を唱えると、その後、7原則説や5原則説は衰退し、「三原則説」が多数派となりました。採択率が最も低い自由社は三原則説を唱えたのちに残りの「4原則」を唱え、7原則説を主張しています。
あとはちょっと手に蕁麻疹ができたのと、謎のバグでエンターキーを押すと文字が消える不具合(?)に悩まされているので後で(Wikipediaだけ。じゃがいもサーバーだし。エーペックスかよ。)。--Konnnitihaseizinnnosabu (会話 ) 2023年12月15日 (金) 16:45 (UTC)
返信 本当にWikipediaの記述の変化から日本国の歴史教科書の改変はある程度予想できるとすれば、単に不適切な編集が継続的に行われているというだけであるように思います。なお、履歴を見る限り本記事が「南京大虐殺」から「南京事件」へ改名されたのは「歴史学の分野では、南京事件と呼ぶのが主流であるから。 また、虐殺に関する論争でも多数派であるので。」となっており、教科書の記述が理由にはなっていないです。いずれにせよ編集にあたって中学・高校レベルの教科書は基本的に関係がありません。--TEN (会話 ) 2023年12月17日 (日) 18:16 (UTC)
>本当にWikipediaの記述の変化から日本国の歴史教科書の改変はある程度予想できるとすれば、単に不適切な編集が継続的に行われているというだけであるように思います。
「不適切な編集」であっても、その人の意識も社会全体の意識としてカウントされます。
>歴史学の分野では、南京事件と呼ぶのが主流であるから。 また、虐殺に関する論争でも多数派であるので。
当時の歴史学者の多くが「南京事件」として教えられた世代です。今後、「南京大虐殺」が復活するでしょう。現在の教科書との関連はちょっと自分でもよく分からなくなりましたが、学者が受けた教育にだいぶ影響されていると感じます。日本国憲法三原則説もそうです。昭和30年の指導要領(https://erid.nier.go.jp/files/COFS/s33j/chap2-2.htm )では「日本国憲法は,基本的人権の尊重,平和主義,国民主権,三権分立,代議制,議院内閣制等の基本的な原則に基いている」となっていますが、教科書には三原則説が載っていました(このとき、学者も検定担当者も基本的に戦前・戦時中(占領下を除く。)の教育を受けた世代です)。現行版では指導要領も三原則説となり、検定では自由社など三原則説をもとにした書き方を強制され、残りの原則は補足的になるなど、学問の自由への侵害も行われています。
>いずれにせよ編集にあたって中学・高校レベルの教科書は基本的に関係がありません。
表面上はそうでしょう。それは間違いありません。--Konnnitihaseizinnnosabu (会話 ) 2023年12月27日 (水) 13:45 (UTC)
これに関しては「だから何」としか言いようがありません。記事と関係ない演説はご遠慮ください。--フューチャー (会話 ) 2023年12月28日 (木) 05:30 (UTC)
To all, please remember to continue this conversation. I wish everyone a healthy and productive 2024. I am sorry to hear of the recent disasters in Japan; I hope you are all not affected by it.
There is still work to do. This article has had these problems for over a decade now, it is time to fix it.
皆さん、この会話を忘れずに続けてください。 皆様にとって、2024 年が健康で実りある年になりますようお祈り申し上げます。最近の日本での災害のことを聞いて残念に思います。 皆さんが影響を受けないことを願っています。
やるべきことはまだあります。この記事にはこれらの問題が 10 年以上存在しており、修正する時期が来ました。--Toobigtokale (会話 ) 2024年1月6日 (土) 11:58 (UTC)
一応、あんまり画像について検証できる資料は揃ってないのですが、とりあえずこちらの編集 で「写真の出典が明示されてない」として削除されているこの画像についてだけ、そこそこ確認ができたので長くなりますが共有します。現時点で把握している限り、写真の信頼性・出典という観点では掲載に問題はなさそうですが、著作権的な問題がクリアであるのか良くわからないです。掲載可否はこれが大丈夫かどうか次第かなと思います。
出典について :まず第一に、出典は画像の詳細ページに「村瀬守保写真集 私の従軍中国戦線,日本機関紙出版センター,1987年12月20日,46頁,写真139,ISBN 4-88900-218-9 」とあり、明記されています。従って出典的な問題はないです。実際にこの写真が掲載されていることも確認しました。
第三者言及 :次にこの写真には第三者言及があります。『南京大虐殺否定論13のウソ』(1999)には笠原十九司「南京大虐殺はニセ写真の宝庫ではない」という写真の問題についての「否定派」に対する反論が掲載されていますが、229頁から230頁にかけて村瀬守保氏の写真について「これらの写真は、集団虐殺の現場から奇跡的に死を免れて逃げ帰った中国人の証言にある、射殺・銃殺、再度生存者を点検して刺殺したあと、最後は薪と石油で焼殺、焼却するという集団大量虐殺の手段が事実であることを証明するものである」と評されており、特にこの写真は「『虐殺されたのち薪を積んで、油をかけられて焼かれた死体。ほとんどが平服の民間人でした』というキャプションの写真が三枚ある。(四六-四七頁)」(230頁)として特記されているものの1つです。
撮影者(村瀬守保)について :撮影者の村瀬守保氏は『村瀬守保写真集 私の従軍中国戦線』の説明によれば1937年7月に召集され31日に入営、兵站自動車第17中隊・第2小隊に所属。個人で写真機を持ち込んでおり、このために検閲を通さない写真を個人的に所持することになったとのことで、1987年に日中戦争中に撮影した写真を写真集として出版したものがこの書籍となります。
撮影時期について :同写真集の記述から、この写真は南京事件最中の1937年12月末~1938年1月初頭のいずれかの時点で撮影されたものと特定できます。同中隊は北京方面への派遣を経て上海方面に転進、11月19日に天津から貨物船で出向、11月22日上海着。12月13日には南京にいたようですが、「十三日夕刻には、十六師団が中山門を占領し、完全に南京を制圧しました。私達輸送部隊はなぜか、二週間ばかり、城内に入ることを許されず、場外に足止めされていました」となっているので、村瀬氏が南京に入城したのは12月27日頃以降。南京陥落後いずれかの時点で長江をわたって徐県城(徐城県 ?)に移動してしばらく駐屯。1938年2月3日に北上命令を受けて第13師団と共に徐州作戦に参加するため移動。となっているため、村瀬氏の記述から撮影時期がかなり絞り込めます。
撮影地点について :これはWikipedia的には独自研究に該当すると思われますが、この画像の詳細ページには、写真に移っている川が秦淮河 であり、橋が石城橋(石城桥)であるとの記載があります。Discussionページ の議論を見るとMtBellというユーザーが現地の写真から特定しているようです。この石城橋は百度百科 に掲載されていて位置が確認できます。また、検索したところ清朝末期および、日中戦争中の橋の写真がありました (現代では架け替えられているようです)。確かに橋脚の数や形などは一致していそうで、しかるべき技能を持った画像解析の専門家が検証すればメートル単位で撮影地点を特定できそうにも見えます。
著作権的な要確認事項 :詳細ページでPermissionが「Author died more than 70 years」となっているのですが、少なくとも村瀬守保氏は1987年12月時点で存命であったのは間違いなく(本人による写真集のあとがきの日付)、このPermissionの記述は事実ではないです。写真集の性質的に掲載許可が下りないようなものではないと予想はされますが、public domainになっているという詳細ページの権利記載が本当なのかよくわかりません。この点がクリアになるならば、この写真自体は南京事件のページに掲載するものとして非常に適切性の高いものと言えるように思います(撮影地点についてはこの写真集の記述からはわからないので掲載できないですが)。この点どなたか著作権に詳しい方のコメントをいただきたいところです。--TEN (会話 ) 2024年1月22日 (月) 16:09 (UTC)
{ { PD-Japan-oldphoto } } が付与されているようです。日本国内の著作物の場合、1946年以前に撮影された写真はすべて旧著作権法 に基づきパブリックドメイン扱いになるので、権利の問題は発生しないのではないでしょうか。--Nux-vomica 1007 (会話 ) 2024年1月23日 (火) 05:21 (UTC)
@TEN さんへ
村瀬守保氏は、Amazonの書籍情報 によると、1988年7月にお亡くなりになったようです。そのため、詳細の情報は誤りであることは確定かと思われます。
現行著作権法(1971年施行法)が施行される前の旧著作権法(1899年施行法)によれば、写真の著作権はその創作又は発行後13年 とされています。そして、現行著作権法の保護期間が適用されるのは、現行著作権法が施行された時点において現に保護期間中のものとされています。
撮影が1937年又は1938年とすれば、その13年後の1950年又は1951年の12月末日となりますから、現行著作権法が適用される前に保護期間は終了しているものとできます。
なお、旧法における「発行後」が適用されるとなった場合は、現行法にる保護期間(死後70年(2058年末)まで)となります。
村瀬氏の写真は1971年までに「公開」されたものではないことから、現行法の規定が適用される余地があります。単純に1971年までに撮影されているから保護期間が終了しているとはできないと思われます。
--Kodai99 (会話 ) 2024年1月23日 (火) 09:29 (UTC)
返信 Nux-vomica 1007さん、Kodai99さんありがとうございます。著作権関連は難しいですね・・。自分でも検索してみたのですが、確信をもってこうだと言えるような情報は見つからず。ただ、一般的な傾向としてはこちらのコラム の説明などのように、基本的には戦時中に撮影された写真の保護期間というのは終了しているものとして取り扱われているようには見えます。日本写真著作権協会が発行している雑誌 の説明では「創作又は発行後」という文言について次のように説明されているのを確認しました。
「写真の著作物の保護期間は、1899年(明治32年)に施行された旧著作権法では発行後10年(未発行の場合 、製作後10年)と規定された。」(強調は引用者)
「1956年(昭和31年)12月31日までに発行又は製作した(写真撮影)著作物の著作権は1966年(昭和41年)12月31日までに消滅してしまった。著作者が生存していても同様である。」
村瀬氏の写真について上記を適用すれば、「創作又は発行後」というのは1987年まで発行されていないことから「製作」の時点から保護期間の計算が行われるはずで、著作者は生存していても1956年(昭和31年)12月31日までに発行又は製作した(写真撮影)著作物の著作権は残っていないのでパブリックドメインとして使用できる、という解釈になりそうですが、こういうものの最終判断ってWikipedia的にはどういう形で意思決定が行われるものでしょうか。法律のことなのであまり適当な解釈で進むのも良くないとは思いますが、一般論的には日本の法制度下での戦前の写真の利用についてはWikipedia上で普通使用できるものと考えるのに問題はなさそうな気がしますし、利便性という点で言えば一般論に従った処理が出来た方が好ましいとは思うのですが。--TEN (会話 ) 2024年1月25日 (木) 15:14 (UTC)
一般的な構成に基づいて、論争を排除した上で、どんな事件か説明できるなら、それに反対する理由はないでしょう。しかしそもそもどんな事件か自体が論争になっていると思うのですが、本当にそのような構成が可能なのでしょうか。--フューチャー (会話 ) 2023年12月11日 (月) 09:10 (UTC)
返信 概説書や事典類などでは「南京事件」の概略を説明する際に基本的に「どんな事件か自体」の論争には言及していないので、これらから記述を作るならば自然と南京事件論争への言及は限定的なものになると思います。現在の版の冒頭文の出典が事典類であるのに「この事件の存在は、連合国軍占領下の日本において行われた極東国際軍事裁判(東京裁判)で認定され~」という論争の話題に入るところから突然、東京裁判の判決文のような一次資料、産経新聞・朝日新聞のようなマスコミ記事、刑法史の論文といった出典に切り替わるのは恐らくこれに起因しているでしょう。また、論争に言及する場合にも、笠原『南京事件』、秦『南京事件』といった概説書における論争への言及の仕方というのは基本的に実際に起きた事象と論争をきちんと区別していますし、臼井『新版 日中戦争』では論争には言及せず単なる事実として描写が行われています。これらの中では基本的に南京事件が「どんな事件か自体」ははっきりしていて、細部はどうあれ日本軍による虐殺事件という取り扱いは確固たるものがあります。不明なものとして取り扱われているのは「犠牲者の正確な数」という点に尽き、実際「論争」に関連して『戦争犯罪事典』や『現代アジア事典』などで言及されている論争も犠牲者数に関わる点なので、この点を節にまとめて記述すれば論争への言及としては一般的な形になると思いますがいかがでしょうか。--TEN (会話 ) 2023年12月11日 (月) 16:50 (UTC)
いかんせん形がないと分かりづらいですから、改稿に向けての草案のようなものを作っていただくことは可能でしょうか。笠原・秦・臼井はいずれも手元にありますので、加筆および査読にはお力添えできると思います。--Nux-vomica 1007 (会話 ) 2023年12月13日 (水) 05:56 (UTC)
返信 ありがとうございます。そうですね、一部書いてみたりはしていたので、一応全体的にこんな風にしたら良いのでは的なものを下書きに置いて見ようと思います。--TEN (会話 ) 2023年12月13日 (水) 16:22 (UTC)
コメント とりあえず、利用者:TEN/sandbox2 に主に笠原『南京事件』と秦『南京事件』の記述をベースにするとこんな形になるのではないかというものを置いて見ました。まだ全く中身も無い節もありますが、あんまり時間を置いても何なので一旦ここで共有します。基本的には
南京事件
南京戦および占領時の日本軍の編成
事件を引き起こした要因
史料
というあたり骨格に構成するのが良いのではと思っています。--TEN (会話 ) 2023年12月17日 (日) 18:16 (UTC)
すみません、このページからの履歴継承がないようですが大丈夫ですか?--フューチャー (会話 ) 2023年12月20日 (水) 22:15 (UTC)
返信 下書きの内容で現行の南京事件 の記事から引き継いでいるのは原剛氏の引用を紹介している注釈だけなので、特に継承する履歴はないと思っています。部分的に反映する場合に備えてタグの形式を揃えるために参照タグはコピーしていますが、これは多分履歴継承は不要だろうと考えます。もし問題があるようであれば別途対処します。--TEN (会話 ) 2023年12月21日 (木) 11:59 (UTC)
報告 さしあたり、こういう感じにしてはどうだろうかというものを下書き にまとめました(誤字脱字や文法のおかしな文章の調整などはまだしていません)。笠原・秦それぞれの『南京事件』をベースにはしていますが、資料部分などはちょっと当初とは変えて別の出典を主に用いてしまってはいます。提案としてはこれを採用するしないは別としても、現在の記事の構成は全面的に見直すべきだというものになります。先だって議論していたXefonさんの編集内容は敢えて独自に組み込むことはしていませんが、必要に応じてそれも併せても良いかもしれないと思います。--TEN (会話 ) 2024年1月11日 (木) 16:59 (UTC)
執筆お疲れ様です。適切な資料を適切に要約した、よい記事になっているものと考えます。形式面で気になった部分を挙げます。
これだけ分量のある記事でしたら、概要節は必要になってくるかなと思います(WP:LEAD )。
「南京戦における日本軍の編成」節の、上海戦から南京戦にかけての日本軍現地部隊の編成の出典が欠けているため(おおむね本文中に記述がありますが、各師団の師団長などについてはこの部分が初出になってくると思います)、出典を追補するべきでしょう(具体的には、秦2007:330-337)。
各所に「(秦)」といった表記が見られますが、これは{ { harv } } テンプレートなどを用いたほうがスマートなのではないかなと思います。
--Nux-vomica 1007 (会話 ) 2024年1月12日 (金) 10:29 (UTC)
返信 確認ありがとうございます。一通り修正してみました。また、一応東京裁判と南京軍事法廷についての記述も追加しました。
概要節:追加してみました。一文あたりに出典を付けるのが難しいので、編集合戦を誘発しやすい記事であることを考慮すると概要の作り方はちょっと悩みますが、大雑把にはこんな感じかなと思います。
日本軍現地部隊の編成の出典:出典追加しました。
{ { harv } } テンプレート:とりあえず証言など一次資料引用の孫引きは{ { Quote } } テンプレート、参考文献の著者の引用は括弧だけで統一してみました。{ { harv } } は現時点だと、参照情報の表記法に統一感がなくなってしまうので、実際に記事の方に記述を適用した後に全体の参照表記法の整理と一緒に適用できれば良いかなと思います。--TEN (会話 ) 2024年1月13日 (土) 15:16 (UTC)
ありがとうございます。私としては、現状の記事はこの草案で上書きしてよいものと思いますが、他の方の意見を待ちたいです。--Nux-vomica 1007 (会話 ) 2024年1月14日 (日) 23:02 (UTC)
I think this is a significant improvement, thank you for your work. The article still lacks images; is there a plan for their inclusion?
これは大きな改善だと思います。ご尽力いただきありがとうございます。 この記事にはまだ画像がありません。 彼らを含める計画はありますか?--Toobigtokale (会話 ) 2024年1月15日 (月) 05:46 (UTC)
返信 At least, I have no plans to add any images to the draft. This is because dealing with the authenticity of photos related to Nanjing Massacre is quite complicated, and I am concerned about the spread of discussion and lose its focus. And, there is nothing about photography of the incident among the references that I have collected for this draft. However, I believe it would be better to include some images. It might be easier to bring them from the English version, but I also think it is better to think about them separately from the process of rewriting contents of the article. --TEN (会話 ) 2024年1月16日 (火) 03:35 (UTC)
I had suspected that was the reason; images are indeed difficult to prove. Still, this draft is an improvement.
If you or anyone else can, in the future, work on adding in images, that would be appreciated.
それが理由ではないかと私は思っていました。 画像を証明するのは確かに困難です。 それでも、この草案は改善されています。
あなたまたは他の誰かが将来的に画像の追加に取り組むことができれば、それは幸いです。--Toobigtokale (会話 ) 2024年1月16日 (火) 08:09 (UTC)
コメント あまりに節が長くなりすぎてて見通しが悪いので、ちょっと中途半端な位置ですが節をわけました。とりあえず、今週いっぱい程度異論が出なければ、下書きを本文に反映したいなと思います。コメント等あれば随時下書きを手直しするなり対処したいと思います。--TEN (会話 ) 2024年1月17日 (水) 15:04 (UTC)
報告 とりあえず提案から一週間以上経過し、新しい意見もつかなかったため記述を本文に反映しました。何かあれば随時調整ということになるかと思います。--TEN (会話 ) 2024年1月21日 (日) 15:14 (UTC)
コメント 議論活性化のためのコメント依頼を見て来ました。出典に関する議論がなされ、笠原『南京事件』と秦『南京事件』をもとにした改稿をTENさんが行ったのを確認しました。基本的にTENさんの改稿に同意します。
改稿に関連して、TENさんが2023年11月9日 (木) 14:00に書いた「論壇誌やマスコミ記事の記述を主たる出典にすべきではない」という意見、常陸のクマさんが2023年11月9日 (木) 14:51に書いた、秦『南京事件』・北村『南京事件の探究』・笠原『南京事件』くらいを基礎として書き直すという意見に基本的に同意します。Xefonさんが2023年11月9日 (木) 06:08に書いた「信頼に値しない出典に基づく記述の削除」という意見は、表現がやや攻撃的に見えますけれど、大筋としてTENさんや常陸のクマさんと同じだと解釈しました。私は文献が手近にないので、Nux-vomica 1007さんが2023年12月13日 (水) 05:56で提案したようなお手伝いはできないと思いますけれど、何かあれば随時書きます。
花蝶風月雪月花警部さんが2023年12月12日 (火) 14:45 に書いた論争についての指摘は改稿において重要だと考えますけれど、今後の課題とさせてください。
フューチャーさんが2024年1月21日 (日) 16:37 に書いた参考文献のノートについての提案に同意します。--Moke (会話 ) 2024年1月30日 (火) 12:52 (UTC)
追記。フューチャーさんが 2024年1月31日 (水) 11:57 で議論にもとづいた編集であると発言されているのを確認しました。--Moke (会話 ) 2024年2月1日 (木) 05:11 (UTC)
本「書き換え」においては「虐殺、および略奪・暴行・強姦・放火など」を不法行為と定義しており、これは犯罪と同義で用いられていると理解しています。
戦闘行動については一般刑法は適用されないので、その行動が慣習国際法違反となる場合に犯罪となりますが、書き換えでは特に構成要件や違法性阻却事由を意識せずに記述しているように見受けられる。
例えば、
①徴発は占領者の正当な権利ですが、徴発が略奪と異なるのは、部隊指揮官の命令により、軍需品を、対価を支払ってまたは支払を約束して供出させることです。
部隊に法幣や軍票の持ち合わせがなければ、引換証(徴発証券)を交付すればよく、また権利者が不在なら引換証を直接交付する必要はなく置き手紙でもよい。(信夫淳平、戦時国際法講義2)
ところが書き換えでは徴発ではなく略奪であった事例として、9D渡辺卯吉の証言を挙げているけれども、これは引換証の記載に不備があったことを示すだけで(権利者は経理部に出頭できているのだから)、支払いの約定が無かったことにはならないし、また、そのような引換証でも経理部が受け付けていることが証言から見受けられる。
②進軍中の放火も同様、慣習法では軍事的必要があれば文化財などでない限りは民用物を破壊できるので、中国兵やゲリラの拠点となりそうな民家への放火は違法ではない。
③「掃討の延長として敗残兵や捕虜の殺害も頻繁に行われた」とされるが、当時の国際慣習法では、投降兵(捕虜)が戦闘行動中に足手まといとなり、かといって解放もできない場合は殺害できる。(佐藤和夫、信夫淳平、Oppenheim 他) 「掃討の延長として」ならば違法では無かった可能性の方が高い。
そうすると、日本軍がもっぱら略奪放火殺人を(違法行為を)しながら進軍したという、南京事件発生の理由のひとつが成り立たなくなってしまう。
このような杜撰な記述となったのは、書き換えが準拠した歴史学者、笠原、吉田、秦が国際法の門外漢であり、かつ国際慣習法を真面目に調査しなかったからだが、
違法性の有無が争点なのに歴史学者のみに依拠して、東京裁判録、「戦史叢書」「南京戦史」などを考慮しなかった書き換え者の重大な過誤でもある。
--くまくま第二 (会話 ) 2024年2月5日 (月) 00:36 (UTC)
捕虜の「解決」と民間人の殺傷の項についても、
①ハーグ陸戦慣例規則には、「戦意を喪失し組織的な行動能力を失った敗残兵に対しては降伏を勧告し捕虜として待遇する」と解釈できる条項は存在しないし、そのような慣習法の存在も実証されない。慣例規則23(c)は 兵器ヲ捨テ又ハ自衛ノ手段尽キテ降ヲ乞ヘル敵ヲ殺傷スルコトとあり、敵兵の投降が捕虜となる前提条件である。(尚、23(c)は戦闘でのあらゆる場合に適用されるものではない(田岡良一 Oppenheim他)
② 「自軍の補給にも窮していた日本軍は制圧当初から全体として捕虜を殺害する方針で臨んでいた」
「捕虜ヲ取ラヌ方針ニテ」という中島日記の記述等が根拠だが、まず大本営、方面軍、軍共にそのような方針があったことは確認できず、派遣軍では逆に捕虜を取れと支持している(飯沼日記)。16Dも捕虜を取っており、全体として捕虜を殺害する方針はまったく実証されない。
(大本営の方針につき立川京一、方面軍ー師団までの統一した方針がなかったことにつき南京戦史)
③ 敗残兵・便衣兵の掃討と良民の選別
書き換えでは、この戦闘員掃討の違法性の有無(争点)が明らかでなく、それに拠って異なってくる誤殺された良民の殺害の違法性も明らかでない。
便衣兵につき吉田は違法とまではいえない。秦は無裁判だったことが違法、笠原は無抵抗な敵兵の殺害が違法としているが、書き換え者はおそらく違いを理解していない。
笠原、秦を採るなら住民殺害は全部違法、吉田を採るなら、抽出方法に重過失があるなら違法となる。
日焼け痕や銃だこで決定したというのが重大な過失となるかは議論がある(佐藤和夫)
また、水谷日記などによると、日焼け痕などのみで決めたというわけでもない。
ここでも引用史料は違法性の根拠として十分ではない。
いずれにせよ--くまくま第二 (会話 ) 2024年2月5日 (月) 01:20 (UTC)
くまくま第二くまくまさんの「書き換え者の重大な過誤でもある」などの表現は、個人または単独のアカウントを指すようにも見えるので一応書きます。(1) 議論をへた上での編集である点は確認しておきます。これまでの議論をご確認ください。(2) 意図していないと思いますけれど、くまくまさんの表現だと個人攻撃にも読めます。Wikipedia:礼儀を忘れない 、Wikipedia:個人攻撃はしない をご確認ください。たとえば「国際慣習法からの議論が充分になされていない」という主旨のことをおっしゃりたいのでしょうか?--Moke (会話 ) 2024年2月5日 (月) 06:35 (UTC) アカウント名を間違えて大変失礼いたしました。--Moke (会話 ) 2024年2月5日 (月) 06:39 (UTC)
信頼すべき資料に基づいた記述を編集方針とするのであれば、南京事件での「不法行為」は戦時国際法(あるいは一般刑法)違反の有無ということになるから、法学者による著述などを援用するべきです。具体的にいくつか指摘しましたが、笠原も秦も違法とする慣習法の存在を実証して記述しているのではない。
個人攻撃だとおっしゃるが、南京事件を一人であるいは数人で全部書き換えるというならば、当然に持っているべき知見を明らかに缺いているという事実を指摘したまでです。--くまくま第二 (会話 ) 2024年2月5日 (月) 19:32 (UTC)
返信 上に書いたように、普段近代史を細かく調べているわけではないので知見が十分でないのはその通りだとは思います。しかし、一次資料の取り扱い や信頼できる情報源 の指針がWikipedia的には方針・ガイドラインとしてあるのであり、元版に対する問題意識はこれを始めとした各種の方針やガイドラインが基本的に無視されている点です。これはWikipediaに参加する人が従うべき、あるいは従うことが推奨されているものであり、元版はこの点において問題が放置されている点がWikipediaの記事として過誤があります。そして歴史分野の記事としては現状の学(術)会のスタンダードに合わせるというのはWikipedia上基本的なことになると理解しています。日記にせよ戦史にせよ 一次資料の評価は二次資料による のが基本となります。
法学者による出典があるべきというのは個人的にはその通りと思いますが、正直私は法学に関して信頼できる情報源を識別する能力はなく現状は使っていません。南京における戦時国際法の適用について学術的なスタンダードまたは有力な見解があるなら拡充されるべきだと思います。ただ、基本的に何が起きたかとそれが法的にどうであるかというのは別の話であり、戦闘員掃討や住民の誤殺というのが歴史学者によって説明されているならそれがまず記述されるように思います。違法性の有無が争点というのは少なくとも論争の話で、南京事件論争 が記述を担当するところだと思うのですがいかがでしょうか。--TEN (会話 ) 2024年2月6日 (火) 04:27 (UTC)
コメント 上記のコメントのように個人的には考えるのですが、正直なところ現状は合意形成の道筋が想像できません。賛同してくださったMoke さん、Zefon さん、説明の労をとっていただいたフューチャー さんには本当に大変申し訳ないのですが、大和屋敷 さんの言うように一旦2024年1月13日 (土) 09:34版まで戻った方が良いかもしれません。一定期間反対がなければ合意と見なすというのはWikipediaの慣習ではありますが、この場で現実にそぐわないのは明らかで(実際、下書きを置いていた期間反対意見が付かないのは奇妙ではありました)、少なくとも「合意済み」で押し通すのはちょっと無茶があるように思います。議論に気付かなかった方々が気付いたところで一区切り、とするしかないように思います。--TEN (会話 ) 2024年2月6日 (火) 06:16 (UTC)
TEN様 ご返信ありがとうございます。
2024年1月13日 (土) 09:34版がTEN様書き換え前の元版を指すのであれば、いったんそこに戻して冷静な議論が可能な状況とした上で再協議するのが適当と思います。
元版には石も含まれるのですが、ただ学術界の通説をなぞるのではなく、その不備を補う水準にある情報が多々あります。専門家による事典に対するWikiの意義は集合知による知見の深化発展にあります。
Wikiの編集基準をどこまで徹底するかは、おそらく20年近くにわたって積み重ねられてきた知見を喪うことの不利益との衡量でなければならないと思料します。
今後の議論の方向性ですが、南京事件をどう捉えるかといった大きな問題の合意には時間がかかると思う。まず個別の記述、出典につき適否を議論する形でボトムアップする方法を提案します。--くまくま第二 (会話 ) 2024年2月6日 (火) 06:35 (UTC)
宛TEN 様
不法行為・違法性の議論について
南京事件関係のページは他に3つ4つありますが、この「南京事件」のページはその名称からポータルとしての性格、役割を持っています。
他のページと連携、分担が望ましいのですが、南京事件を日本軍による戦時国際法、一般刑法違反行為(笠原)と定義した場合、どの行為が違法となるのかの議論は避けられません。
違法性の問題はかなり専門的な議論になるので、これを避けるには「南京事件」のページでは違法性を問わずに殺害などの事実として記述するしかないでしょう。--くまくま第二 (会話 ) 2024年2月6日 (火) 06:49 (UTC)
私への言及があったので来ました。ありがとうございます。
私は2024年2月6日 (火) 04:27 のTENさんのコメントに基本的に同意します。
TENさんの2024年2月6日 (火) 06:16の書き込みについて1点書きますと、「議論に気付かなかった方々が気付いたところで一区切り」というのは、それまでの議論と編集をリセットするので、議論に参加した方々を含めて慎重な検討が必要だと考えます。私が2024年1月30日 (火) 12:52に若干まとめ的に書いたように、秦、北村、笠原を基礎として書き直すという方針に異議がなかったのは、TENさんが2024年2月6日 (火) 06:16に書いた3名の他にもいらっしゃると考えます。他にもありますけれど、ひとまずということで。
--Moke (会話 ) 2024年2月6日 (火) 07:02 (UTC)
宛Mike様 ご返信ありがとうございます。
以前の会話はざっとでしか見ていないのであくまで印象ですが、
南京事件を把握する上で必ず挙げられる文献であるところの南京戦史、日中歴史共同研究における波多野・庄司論文、あるいは軍事史学会の論文集にある板倉論文が、
会話上では討論対象になっていなかったところに、基礎が狭すぎるのではないかと思いました。
実際のところこれらを一度は検討されていたのでしょうか?--くまくま第二 (会話 ) 2024年2月6日 (火) 07:17 (UTC)
訂正のうえ再送 (名宛人の名称誤記m(_ _)m)
宛Moke様 ご返信ありがとうございます。
以前の会話はざっとでしか見ていないのであくまで印象ですが、
南京事件を把握する上で必ず挙げられる文献であるところの南京戦史、日中歴史共同研究における波多野・庄司論文、あるいは軍事史学会の論文集にある板倉論文が、
会話上では討論対象になっていなかったところに、基礎が狭すぎるのではないかと思いました。
実際のところこれらを一度は検討されていたのでしょうか?
--くまくま第二 (会話 ) 2024年2月6日 (火) 07:22 (UTC)
返信 Moke さん。基本的には私としては提示した案が最適だろうと考えます。ので私の提案としては基本的には下書き(現在)案に置き換えるというのがまずあります。ですがすみません、確かに議論と履歴をリセットすることになりますね・・これはこれでWikipedia的には多分おかしいのでちょっと軽率でした。「勝手に」という批判に対応するべく、改めて置き換えを提案する趣旨でした(あと、反対意見が付かないのは議論の流れ的に奇妙と感じたのは正直な感想ではあります)。--TEN (会話 ) 2024年2月6日 (火) 08:19 (UTC)
返信 -くまくま第二 さん。私宛のコメントではないものもまとめてになりますが返信します。すみません、上の通りですが、基本的な話としては私はこの記事の置き換え(現行版)がより良いと思っていますので、元版に戻すにせよしないにせよ、まずいくつかの文献を基にまず骨格を作るべきというのが意見になります。これは元版の構成自体に問題があるためと考えているからです。具体的には概説書で一般的に参照される秦・笠原をベースにするということになります。前の議論はできれば読んでいただければと思います。個人的には出典に関しては、使用したもの以外にもいろいろ確認はしていますが、『南京戦史』は(今は手元にないですが)資料集の方はWikipedia的には一次資料の評価は二次資料による という点から基本的には直接引用は避けた方が良いと考えています。記述の方も基本どれが取りあげるべき記述かというのは学者の判断に依った方が良いかなと思っています。波多野・庄司論文は確認はしましたが、むやみに各論の出典を増やさない方がまとまりが良いだろうと考えて私の書いたものの中では使用していません。板倉氏に関しては少なくとも私は検討・確認していません。どの道、私が書いたものが最終版ではないのは厳然たる事実なので時間とともに新しい出典は肉付けされていくだろうとも思います。
一応今回の改定の趣旨なのですが、基本的にまず歴史学の学術的な通説に従った記述をする(Wikipedia:中立的な観点#適当な重み付け )べきというのは、Wikipediaの基本原則であり「中立的な観点 (Neutral Point Of View, NPOV) は、ウィキペディアの根本的な方針の一つです」とある通りで、「学術界の通説をなぞるのではなく、その不備を補う水準にある情報」というのはWikipedia:信頼できる情報源 の趣旨に沿って判定しなければならないです。これはどのような種類の記事であっても原則として同様で、「Wikiの編集基準をどこまで徹底するか」というのは可能な限り適用すべきという以外の判断はWikipediaの方針的には出てこないと考えています。方針の原則論ばかりになってしまいますが、あまりに無原則に歩んできたからこそ、まず原則を適用することをしなければならないと思っています。--TEN (会話 ) 2024年2月6日 (火) 08:19 (UTC)--TEN (会話 ) 2024年2月6日 (火) 08:43 (UTC)(訂正)
TEN様
確認ですが、 以下確認したく。
①一旦2024年1月13日 (土) 09:34版というのは、貴殿が書き換える前の版(元版という)を指すのか
②元版に差し戻しする意思はあるのか--くまくま第二 (会話 ) 2024年2月6日 (火) 09:36 (UTC)
TEN 様
①Wikiの原則を可能な限り適用することの正当性は、適用によって有用な情報も消去されることによる損失との衡量であることを再度主張します。またWikiの原則は情報源についてのものであって、元版の構成それ自体をまったく変えてしまう理由にはなりません。
② 学問上の中立的観点というのは、対抗論文があれば必ず対照し、また在野の論文であっても考慮すべきは参考として掲げて、議論の余地のあることを明らかにすることです。人口に膾炙している(と思われる)論文に絞るというのは中立とは違う。
対抗論文の権威についても、波多野・庄司論文(ご存知なかったのはいかがなものかと思う)、南京戦史を疑う者はいないはずで、構成のまとまりを理由に排除したとするなら、正しい執筆姿勢ではない。
富澤繁信氏の一連の著作はアカデミーの権威ではないが査読論文の水準にあると思われるし、東中野氏、阿羅氏についてもアカデミーではないからというだけで排除できる水準のものではありません。
③情報源の信頼性をどうやって評価するのかについて貴殿らはアカデミーの権威と人口に膾炙していることを選択した。しかしそもそもアカデミーであるかという判断基準はwikiには存在せず、信頼性の判断は、選択する側の知見の深さに委ねられる。上述の富澤氏らの論文内容の信頼性を否定する根拠を、アカデミーではないという以外に貴殿はお持ちなのか。--くまくま第二 (会話 ) 2024年2月6日 (火) 10:18 (UTC)
くまくま第二さんが私におっしゃりたいのは、南京戦史、波多野・庄司論文、板倉論文が出典として重要であるという主旨でしょうか? でしたら、重要だと考えているくまくま第二さんに代わって、なぜ私が9つある過去ログを含めて前述の文献についての意見を探さなければいけないのか、理由が分かりませんでした。お力になれず申し訳ありません。
また、本題ではありませんけれど、「基礎が狭すぎる」というのはこれまで議論に参加してきた皆さんに対して強い表現だと考えます。--Moke (会話 ) 2024年2月6日 (火) 10:13 (UTC)
宛Moke 殿
①私の発言は、貴殿に過去ログを探すようにお願いする主旨ではありません。
②テーマに対して当然参照検討すべき先行研究を一顧だにしない論文に対する評価として、私のような言い方は優しい方だと思います。--くまくま第二 (会話 ) 2024年2月6日 (火) 10:23 (UTC)
「優しい方」というのは、Wikipediaでの議論において、という意味でしょうか? 「ざっとでしか見ていないのであくまで印象」ということであれば、議論に参加している皆さんについてかなり強い調子の印象を持たれていると考えます。
くまくま第二さんの表現は当初から強めですけれど、もし本項目についてご自身の知見を述べたいのであれば、Wikipedia:エチケット にある「あまりにも情熱を持っている事柄については執筆を避けてください」もご参考になるかもしれません。--Moke (会話 ) 2024年2月6日 (火) 10:48 (UTC)
宛Moke殿
ご指摘ありがとうございました。
私の発言は、南京事件について自分の知見に沿った内容に記述を変えさせようとする主旨ではなく、歴史学およびwikiにおいての叙述の在り方としてどうかという主旨であります。
そのこと、叙述の在り方、についてのご批判であれば、正面からお受けいたします。--くまくま第二 (会話 ) 2024年2月6日 (火) 10:54 (UTC)
コメント 個人的な意見としては基本的には前と同様なのですが、正直議論を落着させるような説明を持たず、一旦改めて2024年1月13日 (土) 09:34版への巻き戻しを提案したいと思います。版についてはページの履歴を確認いただければ時刻でわかると思います。賛同いただいた方々には改めて大変申し訳ないのですが、問題点については個別の提案とさせてください。--TEN (会話 ) 2024年2月6日 (火) 10:59 (UTC)
宛TEN様
ご提案ありがとうございました。
haruka氏もご意見をお持ちと思いますので、同氏の諒解も得たいと思います。--くまくま第二 (会話 ) 2024年2月6日 (火) 11:15 (UTC)
私にも確認のお声がけ頂きありがとうございます。
2024年1月13日 (土) 09:34版への巻き戻し
ということでしたら、
それが1/21の大改訂版の取り消しということになると思いますので、私がお願いしていたことと重なると思います。
よろしくお願いいたします。--Harukaikeda (会話 ) 2024年2月6日 (火) 11:48 (UTC)
宛TEN様、Haruka ikeda様
Harukaikedaさんもご確認されたということなら、TENさんの差し戻し案に異存はありません。--くまくま第二 (会話 ) 2024年2月6日 (火) 12:05 (UTC)
TENさんの2024年2月6日 (火) 10:59のコメントを確認しました。コメントをありがとうございます。--Moke (会話 ) 2024年2月6日 (火) 11:08 (UTC)