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ハトヴィヒ・フォン・ザクセン(ドイツ語:Hadwig von Sachsen, 914/20年 - 958年以降)またはヘートヴィヒ(Hedwig)は、フランス公ユーグ大公の妃。また、956年にユーグ大公が死去した後、幼年の息子ユーグ・カペーの摂政をつとめた。ユーグ・カペーはフランス王位につき、カペー朝の家祖となった。フランス語名はエドヴィジュ・ド・サックス(Hedwige de Saxe)
ハトヴィヒはドイツ王ハインリヒ1世とその2番目の妃マティルデ・フォン・リンゲルハイムの間の次女である[1]。兄オットー1世は父の跡を継いで王となり、962年には神聖ローマ皇帝となった。弟にバイエルン公ハインリヒ1世およびケルン大司教ブルーノが、姉に939年に西フランク王ルイ4世と結婚したゲルベルガがいる。
兄オットー1世が王位についた936年以降、西フランク王国のユーグ大公との同盟および結婚が決められた。ユーグ大公は西フランク王ルイ4世との争いで支援を求めていたのである。そしてハトヴィヒはユーグ大公の3番目の妃となった。結婚式は恐らく937年5月に行われた[1]。
ユーグ大公は956年に死去したが、息子ユーグ・カペーはまだ未成年であった。このため、ユーグは父の領地を相続したものの、当初自身で支配することができなかった[2]。ハトヴィヒは弟であるケルン大司教ブルーノとともに、ユーグが成人するまで領地の摂政をつとめた。ブルーノは姉ゲルベルガの子西フランク王ロテールの後見人もつとめており、一時的に西フランク王国で最も強い権力を持つ貴族となった。ハトヴィヒはエノー伯レニエ3世との争いにおいて兄を支援し、息子ユーグ・カペーと甥ロタール王との対立で仲裁を行った。
ハトヴィヒについては、西フランク王国の年代記作者ランスのフロドアルトに958年に言及されたのが最後であり、その後まもなく亡くなったとも考えられる。ジャンブルーのシジュベールが没年を965年としているのは疑わしいようである。
ハトヴィヒはユーグ大公との間に5人の子女をもうけた。
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