パリのパサージュ・クーヴェル
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パサージュ・クーヴェル (Les Passages couverts) は複数の通りを接続することを目的に既存の建築物を改築して設けた通り抜け道、歩行者専用道路。18世紀以降のフランスを中心に建造された。通路はガラス製の屋根に覆われている。複雑に入り組んでいる通路もある。パサージュ、小路とも記される。
パリのパサージュ・クーヴェルは18世紀末から20世紀初頭にかけて、特に復古王政期に多くが建造された[1]。位置は2区周辺のセーヌ川右岸に集中する。1786年にパレ・ロワイヤルの中庭に面して建造されたガラス製の屋根を持つ回廊型商店街のギャルリ・ド・ボワ (Galerie de Bois) がパサージュ・クーヴェルの原型とされる[2]。最古のパサージュ・クーヴェルは1791年に開通したパサージュ・フェイドー (Passage Feydeau) であったが取り壊されて残っていない[3]。1798年に開通したパサージュ・デュ・ケール(フランス語版)が現存するパサージュ・クーヴェルのうち最も古いものである。18世紀末から19世紀初頭のパリは、縦横の道路が未整備であったために通りから別の通りへと抜けることが困難で、道幅も狭い上に馬車の通行が多かったため歩行者は不便を強いられていた[4]。盛り場付近にある建物の所有者は建物の間を通り抜ける近道を通せば集客と店子からの賃料で儲けることができると考えた。建物の所有者たちはガラス屋根や大理石で覆われた壁と床、モザイクタイルが敷かれた通路、ガス灯、暖房設備など豪奢な内装を競って設えた[5][6]。パサージュ・クーヴェルには生地屋、仕立て屋、靴屋、ワイン商、レストラン、書店などが入居し高級商店街として大いに賑わった[7]。1830年のフランス7月革命以降にパレ・ロワイヤルからグラン・ブールヴァールへと中心地が移り、さらにボン・マルシェなどのデパート開業やジョルジュ・オスマンのパリ改造による大通り開通によって、商業施設・交通網としての重要性が薄れてパサージュ・クーヴェルは衰退した[8][9]。
パサージュ・クーヴェルは20世紀後半に発行されたヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』 (Das Passagen-Werk) によって再注目された[10]。ギャルリ・ヴィヴィエンヌなどいくつかのパサージュ・クーヴェルが近年に改修された。ギャルリ・コルベール(フランス語版)はフランス国立図書館の別館として現存する。フランス政府によって歴史建造物 (Monuments historiques) の登録と保護が進められている。