フィルモン・ポウノル
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フィルモン・ポウノル(Philemon Pownoll、1734年頃-1780年6月15日)はイギリス海軍の士官である。オーストリア継承戦争、七年戦争、アメリカ独立戦争で活躍し、ポストキャプテン(肩書きのみならず職権をも有する大佐)にまで昇進した。
概要 フィルモン・ポウノル Philemon Pownoll, 生誕 ...
フィルモン・ポウノル Philemon Pownoll | |
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フィルモン・ポウノルの肖像 サー・ジョシュア・レノルズ作 | |
生誕 |
1734年ごろ イギリス、プリマス |
死没 |
1780年6月15日 オーステンデ沖アポロ艦上 |
所属組織 | イギリス海軍 |
軍歴 |
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最終階級 | ポストキャプテン |
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ポウノルは一流の船大工の子として生まれ、オーストリア継承戦争の最後の年に海軍に入った。数年間の任務の後、七年戦争の勃発時には自分で艦を指揮するほどにまで出世した。七年戦争ではスループオブウォー(英語版)を指揮し、戦闘のすべてを通じて最も価値のある船を拿捕して、一夜にして大金持ちになった。ポウノルは結婚して土地を買ったが、その富にもかかわらず、アメリカ独立戦争の勃発とともに第一線に戻った。現役の間を通じて、ポウノルは、エドワード・ペリューやジョン・ボルラス・ウォーレン(英語版)といった著名な艦長たちの教師的な存在だった
北アメリカにおいて部隊の支援や輸送をうまくこなし、その行動は際立っていた。また、ジブラルタル包囲戦のような、より大きな艦隊による海戦にも参戦した。1779年には、フランスの私掠船と激しい戦いを繰り広げ、その時に胸に銃弾を受け、その後、彼が死ぬまでその銃弾は取り去られることはなかった。翌年、またも重装備の私掠船と交戦し、そのさなかに砲弾を受けて戦死した。この交戦は指揮下の1等海尉ペリューが勝利に持ち込んだ。彼の戦死は、ジョン・ジャーヴィスやエドワード・ペリューをはじめとする、同時代の主な海軍軍人からの尊敬を受けた。