ブラッディクリークの戦い (1711年)
ウィキペディア フリーな encyclopedia
1711年のブラッディクリークの戦い(ブラッディクリークのたたかい、Battle of Bloody Creek)は、1711年6月21日(6月10日)[4]、アン女王戦争中に行われた戦闘である。アベナキ族が、アナポリス川岸で、イギリスとニューイングランド民兵連合軍を待ち伏せして勝利を収めた戦いで、後にこの場所は、この戦闘にちなんでブラッディクリークと呼ばれるようになった。現在の、ノバスコシア州カールトンコーナーのアナポリス川に注ぐこの水路(クリーク)では、1757年にも戦闘が行われた。
概要 ブラッディクリークの戦い, 時 ...
ブラッディクリークの戦い | |||||
---|---|---|---|---|---|
アン女王戦争中 | |||||
1702年当時のポートロワイヤル | |||||
| |||||
衝突した勢力 | |||||
ニューイングランド民兵 イギリス軍正規兵 | アベナキ族 | ||||
指揮官 | |||||
デヴィッド・ピジョン | ライマユ(名前、階級共に不明) | ||||
戦力 | |||||
50人から100人[1] | 民兵70[2] | ||||
被害者数 | |||||
戦死16、負傷9、その他捕囚[3] | 不明 | ||||
閉じる
この戦闘は、アナポリスロイヤルを守っていたイギリス軍の戦力を削ぐための、ヌーベルフランスによる策略の一部だった。イギリスは、その前年にポートロワイヤルを攻略したばかりで、この地域の守りに多くの人数を割けなかった。この攻略で、すべての兵が戦死または捕囚されたことにより、フランスとインディアンの同盟軍は奮い立たせたが、彼らには大砲がなかったため、イギリス軍を効果的に攻められず、またイギリスが海路援軍をよこしたため、戦闘を放棄した。