ポーランド・ロシア戦争 (1792年)
ウィキペディア フリーな encyclopedia
1792年のポーランド・ロシア戦争 (ポーランド語: Wojna polsko-rosyjska) または第二次分割戦争(英語: War of the Second Partition[3]) または5月3日憲法防衛戦争 (ポーランド語: wojna w obronie Konstytucji 3 maja[4]) は、同年5月18日から7月27日にかけて、ポーランド・リトアニア共和国と、同国内の5月3日憲法に反対する勢力タルゴヴィツァ連盟及びエカチェリーナ2世治下のロシア帝国の連合軍の間に起こった戦争[3]。
概要 時, 場所 ...
1792年のポーランド・ロシア戦争 | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
ポーランド・ロシア戦争中 | |||||||
1792年のポーランド・リトアニア共和国と戦略図 | |||||||
| |||||||
衝突した勢力 | |||||||
ロシア帝国 タルゴヴィツァ連盟 | ポーランド・リトアニア共和国 | ||||||
指揮官 | |||||||
ミハイル・クレチェトニコフ ミハイル・カホフスキ |
スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ | ||||||
戦力 | |||||||
98,000人[1] | 64,000人[2] |
閉じる
ポーランド領のリトアニアとウクライナで戦闘が行われた。どちらの戦線でも、結果的にポーランド軍は圧倒的な兵力を誇るロシア軍を前に、本格的な衝突に至らぬまま撤退した。ただし南部戦線ではユゼフ・ポニャトフスキとタデウシュ・コシチュシュコ率いるポーランド軍が激しい抵抗を見せた。2か月強の戦争の間に何度か小規模な戦闘が起きたものの、どちらかが戦闘で決定的勝利を収めるといったことはなかった[5]。6月18日、ポーランド軍はジェレンツェの戦いでロシア軍に勝利し、軍功勲章が創設された。しかしそれ以外ではロシア軍が一方的にポーランド領内深くに侵攻していく展開となり、ポーランド王スタニスワフ2世アウグストが外交手段での決着を望んで停戦を申し入れ、ロシアの要求に従い自身がタルゴヴィツァ連盟に入ることで終結した[6]。