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ブラジルのサッカー選手、監督 (1931-2024) ウィキペディアから
マリオ・ジョルジ・ロボ・ザガロ(Mário Jorge Lobo Zagallo, 1931年8月9日 - 2024年1月5日)は、ブラジル・アラゴアス州出身の元サッカー選手・サッカー指導者。選手時代のポジションはフォワード。
FIFAワールドカップにおいて選手時代に2度、監督・コーチとして1度の優勝、1度の準優勝経験を持つ。
1950年代前半、CRフラメンゴの左ウイングとして頭角を現したザガロは、フラメンゴ、ボタフォゴ時代も合計5回のリオ州選手権優勝を果たした[1]。
ブラジル代表に選出され、1958年のW杯スウェーデン大会と1962年のW杯チリ大会の連続優勝の偉業を達成したチームにおいて、ウイングとして常に先発メンバーに名を連ねた。体格面ではさほど恵まれてはいなかったが、足元の技術は元より、守備時に前線から真っ先に戻ってきて自陣を固める、献身的なプレイヤーだった。
代表選手としては37試合に出場し、30勝4分3敗の好成績を残した。
1965年に現役を引退した後は指導者に転身し、自身も選手としてプレーしたボタフォゴFRなどブラジル国内の有力クラブの監督を歴任。またナショナルチームにも度々携わり、1970年のW杯メキシコ大会ではリヴェリーノ、ペレらをまとめ上げて優勝を果たし[1]、初の選手と指導者双方でのワールドカップのタイトルを獲得した(その後、選手と指導者双方で優勝したのはフランツ・ベッケンバウアーとディディエ・デシャンである)。
1989年にはUAE代表監督に就任し、見事1990 FIFAワールドカップ・アジア予選を勝ち抜き、同代表をW杯初出場に導いた[2][3]。
その後1994年のW杯アメリカ大会では、愛弟子でもあるカルロス・アルベルト・パレイラ監督をアシスタントコーチとして支えチームを優勝に導いた[1]。大会後、代表監督に復帰、オリンピック世代の代表監督も兼任した[1]。1995年のコパ・アメリカ以降は次の1998 FIFAワールドカップに向け、年齢を考慮した選手選考をするという明確な方針があり、これまで召集されてきた一部のベテラン選手たちが代表を外れた[1]。1996年のアトランタオリンピックでは3位に終わった。
1998年のW杯フランス大会ではアシスタントコーチにジーコを配して再び指揮を執り、決勝でフランスに敗れたはしたものの準優勝を果たした。ブラジル代表の監督・コーチとして臨んだ試合は合計154試合に上るが、うち110勝と33の引き分け、敗戦はたったの11試合しかない。(マイアミの奇跡が奇跡と呼ばれる一つの理由でもある)選手として、指導者として4度の世界王者に輝いたザガロは、多くの後輩たちから「教授」と呼ばれ尊敬を集める存在となっている。
監督時代には数々の輝かしい実績を残しているが、その守備寄りな戦術ゆえ、攻撃的なサッカーを好むブラジル国内ではしばしば批判の対象となった。しかし1994年、98年のW杯に見られた2人のボランチと両サイドバックが攻守に献身するサッカーは、ボール支配率を重視する現代サッカーを体現するものであり、優勝・準優勝という結果でもってその理念を証明して見せた。彼が重用した守備的なポジションのプレイヤーであるカフー、ロベルト・カルロスといった選手たちは、その後現代を代表する名選手として世界的な名声を手に入れ、また2006年7月から2010年7月まではザガロのチームで長く主将を務めたドゥンガが代表チームを指揮していた。
2001年のフラメンゴを最後に監督業からは勇退。W杯日韓大会でブラジル代表が5度目の優勝を遂げた直後の2002年11月20日、韓国代表との親善試合でブラジル代表監督に一時的に復帰し、3-2の勝利で自身の代表監督100勝目を飾った。
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