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マリーア・ルイーザ・ディ・スパーニャ(Maria Luisa di Spagna, 1782年7月6日 - 1824年3月13日)は、スペイン王カルロス4世と王妃マリーア・ルイサ・デ・パルマの娘。ブルボン=パルマ家当主でエトルリア王となったルドヴィーコ・ディ・ボルボーネと結婚した。マリーア・ルイーザ・ディ・ボルボーネ=スパーニャ(Maria Luisa di Borbone-Spagna)、マリーア・ルイーザ・ディ・ボルボーネ(Maria Luisa di Borbone)とも。スペイン名はマリーア・ルイサ・デ・ボルボーン・イ・ボルボーン=パルマ(María Luisa de Borbón y Borbón-Parma)。
ラ・グランハ宮殿で生まれる。成人した7人の兄弟姉妹のうちの3番目で、弟にスペイン王フェルナンド7世および第一次カルリスタ戦争を起こしたモリナ伯カルロス、姉にポルトガル王妃カルロッタ・ジョアキナ、妹に両シチリア王妃マリーア・イザベッラがいる。
1795年8月25日にマドリードで、従兄のルドヴィーコと結婚した。2人の間には1男1女が生まれた。
1801年、ルドヴィーコはナポレオン・ボナパルトによって建てられたエトルリア王国の国王に即位し、マリーア・ルイーザも王妃となったが、ルドヴィーコは1803年に早世した。息子カルロ・ルドヴィーコが後を継ぎ、マリーア・ルイーザが摂政となった。ナポレオンが失脚した1815年、パルマ公国はマリア・ルイーザに与えられ、カルロ・ルドヴィーコにはルッカ公国が与えられ、マリーア・ルイーザがルッカ公国の摂政として統治した。
1824年、ローマで死去した。息子カルロはパルマ女公マリア・ルイーザ死後の1847年にパルマ公国を回復した。
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