ムティー
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アブル=カースィム・アル=ファドル・ブン・アル=ムクタディル(アラビア語: أبو القاسم الفضل بن المقتدر, ラテン文字転写: Abuʾl-Qāsim al-Faḍl b. al-Muqtadir, 913/4年 - 974年10月12日)[1]、またはラカブ(尊称)でアル=ムティー・リッ=ラーフ(アラビア語: المطيع لله, ラテン文字転写: al-Mutīʿ li-ʾllāh,「神に従順な者」の意)[2]は、第23代のアッバース朝のカリフである(在位:946年1月29日 - 974年8月5日)。
ムティー المطيع لله | |
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アッバース朝第23代カリフ | |
在位 | 946年1月29日 - 974年8月5日 |
全名 | アブル=カースィム・アル=ファドル・ブン・アル=ムクタディル・アル=ムティー・リッ=ラーフ |
出生 |
913年または914年 バグダード |
死去 |
974年10月12日 ダイル・アル=アークール |
埋葬 | ルサーファ(英語版)(バグダード) |
子女 | ターイー |
王朝 | アッバース朝 |
父親 | ムクタディル |
母親 | マシュアラ |
宗教 | イスラーム教スンナ派 |
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946年に即位したムティーの治世はアッバース朝の支配力が最も衰えた時代だった。ムティーが即位する以前の数十年間にカリフの世俗的な権力が及ぶ範囲はイラクに限定されるまで縮小し、そのイラクにおいてでさえ強力な軍閥によって権力を押さえ込まれていたが、946年にバグダードを征服したブワイフ朝によってカリフはその権力を完全に喪失することになった。ムティーはブワイフ朝の手でカリフに即位したが、イラクにおける司法関連の人事に僅かに介入した事例を除けば、ブワイフ朝政権の実質的な傀儡としてほぼ無条件に公文書へ署名するだけの存在となった。しかし、その従属的な役割を受け入れたことで、短命で暴力的に廃位された前任者たちとは対照的に比較的長期にわたってカリフの地位を保持し、息子のターイーにその地位を引き継がせることができた。
また、イスラーム世界の名目上の指導者としてのカリフの権威もその治世中に大きく低下した。ブワイフ朝の対抗勢力である東方のサーマーン朝は955年までムティーをカリフとして承認しようとせず、960年代以降のビザンツ帝国の攻勢に対しても効果的な指導力を発揮できなかったことでムティーの評判は下落した。さらにアッバース朝にとって重要な問題となったのは、中東地域におけるシーア派政権の台頭によって政治面だけでなく宗教面においてもアッバース朝とスンナ派の優位に直接的な脅威が及ぶようになったことである。ブワイフ朝は政権の正当性を確保するためにアッバース朝のカリフを形式的に温存していたが、宗教的にはシーア派を信奉していた。西方ではシーア派の一派であるイスマーイール派を信奉するファーティマ朝が台頭し、ムティーの治世中の969年にエジプトを征服するとともにシリアへの進出を開始した。