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リトアニア共産党(リトアニアきょうさんとう、リトアニア語: Lietuvos komunistų partija、略称: LKP、ロシア語: Коммунистическая партия Литвы、略称: КПЛ)は、かつてリトアニアに存在した共産主義政党。
党員数[1] | |
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年 | 党員数 |
1930年 | 650人 |
1936年 | 1,942人 |
1940年 | 1,741人 |
1941年 | 4,620人 |
1945年 | 3,540人 |
1950年 | 27,800人 |
1955年 | 35,500人 |
1960年 | 54,300人 |
1965年 | 86,400人 |
1970年 | 116,600人 |
1975年 | 140,200人 |
1980年 | 165,800人 |
1918年10月初め、リトアニア共産党はヴィンツァス・ミツケヴィチュス=カプスカスらによって設立された。その後1926年12月、リトアニア当局によって党活動が禁止され[2]、1940年にリトアニアがソヴィエト連邦に編入されるまで活動は違法とされた。
1940年、リトアニア共産党はソヴィエト連邦共産党と合併することとなり、リトアニア共産党はリトアニア地域の下位組織に位置づけられた。リトアニア・ソヴィエト社会主義共和国(リトアニアSSR)が建国されると、リトアニア共産党第一書記にはアンタナス・スニエチクスが就任した。リトアニアSSRにおいては共産党第一書記が事実上の国のトップであった。また、党の第二書記には常にモスクワが指名したロシア人が就任した。
1989年、リトアニアでソヴィエトに対する抗議運動(「歌う革命」)が起こる中、リトアニア共産党はソヴィエト共産党からの独立を宣言。1990年にリトアニアがソ連からの独立回復を宣言し、リトアニア共産党もリトアニア民主労働党 (LDDP) へと改組された。なお、リトアニア民主労働党は、のちにリトアニア社会民主党 (LSDP) と合併している。
リトアニア共産党の中でリトアニア民主労働党に与しなかった者たちはミーコラス・ブロケヴィチュスの下、1990年から91年までリトアニア共産党に残留したが、1991年、共産党の活動はリトアニア当局により禁止されることとなった。しかし、活動が違法とされている現在でもゲンナジー・ジュガーノフの率いる共産党連合=ソビエト連邦共産党に加盟している。
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