レニングラード包囲戦
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レニングラード包囲戦(レニングラードほういせん、ロシア語:блокада Ленинграда ブラカーダ・リニングラーダ、1941年9月8日 - 1944年1月27日)は、第二次世界大戦の独ソ戦における戦闘のひとつ。
概要 レニングラード包囲戦, 交戦勢力 ...
レニングラード包囲戦 | |
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1942年 包囲中のネフスキー大通りを歩くレニングラード市民達 | |
戦争:第二次世界大戦(独ソ戦) | |
年月日:1941年9月8日 - 1944年1月27日 | |
場所:ソビエト連邦・レニングラード市(現・サンクトペテルブルク) | |
結果:ソ連軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
ドイツ国 フィンランド イタリア王国 |
ソビエト連邦 |
指導者・指揮官 | |
ヴィルヘルム・フォン・レープ ゲオルク・フォン・キュヒラー カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム エリック・ハインリッヒス |
マルキアン・ポポフ クリメント・ヴォロシーロフ ゲオルギー・ジューコフ イワン・フェジュニンスキー ミハイル・ホージン(英語版) レオニード・ゴヴォロフ キリル・メレツコフ |
戦力 | |
725,000 | 930,000 |
損害 | |
不明 | 軍人 戦死 332,059 行方不明 111,142 市民 ソ連の発表67万人、一説では 100万人以上[1] |
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ドイツ軍はソビエト連邦第2の大都市レニングラード(現・サンクトペテルブルク)を900日近く(872日[2])にわたって包囲したが、レニングラードは包囲に耐え抜き、後にスターリンによって英雄都市の称号が与えられた。ソ連政府の発表では市民の死者は約63万人だが実数は100万人を超えるとも言われる。また死因の97%は餓死と言われている[3][4][5]。 この間、レニングラードの最高指導者はレニングラード党委員会第一書記の地位にあり、スターリンの後継者の有力候補の一人とされていたジダーノフであった。