ロンドン
イギリスおよびイングランドの首都 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
親愛なるWikiwand AI, これらの重要な質問に答えるだけで、簡潔にしましょう:
トップの事実と統計を挙げていただけますか ロンドン?
この記事を 10 歳向けに要約してください
「ロンドン」のその他の用法については「ロンドン (曖昧さ回避)」をご覧ください。 |
ロンドン(London [ˈlʌndən] ( 音声ファイル)(ランドン))は、イギリスおよびこれを構成するイングランドの首都。イングランドの9つの地域(リージョン)のひとつ。
ロンドン | |
---|---|
ロンドン地域(大ロンドン) London Region(Greater London) | |
北緯51度30分28秒 西経0度07分41秒 | |
国 | イギリス |
構成国家 | イングランド |
地域 | ロンドン地域 |
地区 | シティと32の特別区 |
ローマ人による建設 | 西暦50年 |
政府 | |
• 地方政府 | 大ロンドン庁 |
• 地方議会 | ロンドン市議会 |
• 市長 | サディク・カーン(労働党) |
• イギリス議会 - ロンドン議会 - ヨーロッパ議会 |
74選挙区 14選挙区 ロンドン選挙区 |
面積 | |
• グレーター・ロンドン | 1,569 km2 (606 mi2) |
標高 | 24 m (79 ft) |
人口 (2020年) | |
• グレーター・ロンドン | 9,425,622 [2]人 |
• 密度 | 5,354人/km2 (13,466人/mi2) |
• 都市部 | 9,787,426人 |
• 都市圏 | 15,010,295人 |
等時帯 | UTC+0 (グリニッジ標準時) |
• 夏時間 | UTC+1 (英国夏時間) |
郵便番号 |
E, EC, N, NW, SE, SW, W, WC, BR, CM, CR, DA, EN, HA, IG, KT, RM, SM, TN, TW, UB, WD |
住人の呼称 | ロンドンっ子 (Londoner) |
民族構成 (2005年推計)[3] | |
ウェブサイト | www.london.gov.uk |
イギリスやヨーロッパ域内で最大の都市圏を形成している。ロンドンはテムズ川河畔に位置し、2000年前のローマ帝国によるロンディニウム創建が都市の起源である[4]。ロンディニウム当時の街の中心部は、現在のシティ・オブ・ロンドン(シティ)に相当する地域にあった。シティの市街壁内の面積は約1平方マイル(2.6km2)あり、中世以来その範囲はほぼ変わっていない。少なくとも19世紀以降、「ロンドン」の名称はシティの市街壁を越えて開発が進んだシティ周辺地域をも含めて用いられている[5]。ロンドンでは市街地の大部分がコナベーションにより形成されている[6]。
グレーター・ロンドンでは選挙で選出されたロンドン市長とロンドン議会により統治が行われ[7][8]、域内はシティ・オブ・ロンドンと32のロンドン特別区から成る。
ロンドンは最高水準の世界都市として、芸術、商業、教育、娯楽、ファッション、金融、ヘルスケア、メディア、専門サービス、調査開発、観光、交通といった広範囲にわたる分野において強い影響力があり[9]「世界一革新的な都市」と呼ばれることもある[10]。また、ニューヨークと並び世界をリードする金融センターでもあり[11][12][13]、2014年時点の域内総生産は世界第5位で、欧州域内では最大である[14]。世界的な文化の中心でもある[15][16][17][18]。ロンドンは世界でもっとも来訪者の多い都市であり[19]、単一の都市圏としては世界でもっとも航空旅客数が多い[20]。欧州ではもっとも高等教育機関が集積する都市であり、ロンドンには大学が43校ある[21]。2012年のオリンピック開催にともない、1908年、1948年に次ぐ3度目のオリンピック開催となり、同一都市としては史上最多となる[22]。
ロンドンは文化的な多様性があり、300以上の言語が使われている[23]。2011年3月時点のロンドンの公式の人口は817万4,100人であり、欧州の市域人口では最大で[24][25]、イギリス国内の全人口の12.7パーセントを占めている[26]。グレーター・ロンドンの都市的地域は、パリの都市的地域に次いで欧州域内で第2位となる827万8,251人の人口を有し[27]、ロンドンの都市圏の人口は1,200万人[28]から1,400万人[29]に達し、欧州域内では最大である。ロンドンは1831年から1925年にかけて、世界最大の人口を擁する都市であった[30]。2012年にマスターカードが公表した統計によると、ロンドンは世界でもっとも外国人旅行者が訪れる都市である[31]。
イギリスの首都とされているが、他国の多くの首都と同様、ロンドンの首都としての地位を明示した文書は存在しない[32]。
「ロンドン」の語源ははっきりとしていない[33]。古代の名称はその典拠が2世紀からのものに見られる。121年にロンディニウムの記録があり、ローマ・ブリトン文化が起源である[33]。最初期の説は今日では軽視されているジェフリー・オブ・モンマスのブリタニア列王史である[33]。名称の説の一つにルッドから仮定されるもので、主張によればこの王が街を占領しKaerludと名付けたとしている[34]。
1898年以降は「Londinosと呼ばれる男の所有する土地」を意味するケルト語に語源を求めるのが一般的であったが、この説は否定されている[33]。1998年、言語学者のリチャード・コーツ(英語版)は古ケルト語の(p)lowonidaを語源とする説を提示した。(p)lowonidaとは、「渡るには幅が広すぎる川」を意味し、ロンドンを東西に貫通するテムズ川を指すものとして提案されている。ケルト語の形でLowonidonjonとなり、これが集落名になったとした[35]。しかしながら、この説は大きな修正を必要とした。可能性としてウェールズ語の名称が英語から借用されたものに戻り、基礎から元の名称を再構築して使用することが困難であるという可能性も排除できない。
1889年まで"London"の名称は公式にはシティ・オブ・ロンドンにのみ適用されていたが、カウンティ・オブ・ロンドン(英語版)を表すものとなり、現在ではグレーター・ロンドンを表すものとなっている[5]。
漢字表記は「倫敦」が用いられるが、明治期前後には「龍動」と記載した例もある[36]。現代中国語をピンイン式でアルファベット表記すると、倫敦は「lundun」で、龍動は「longdong」となる。龍動と表記したのは、清国から伝わった外来表記であった可能性がある。
先史時代・古代
ロンドン周辺にはケルト系のブリトンの集落跡が点在した形跡が確認される。最初の大きな開拓地はローマ帝国によって43年に創建された[37]。この開拓は17年間続いたが、61年ころブーディカが率いるイケニ族により強襲され焼き討ちされた[38]。また一説には紀元前1103年ごろ、トロイ王族の孫ブルートゥスがトロイヤ人の一団を率いてイタリアから移住、「ニュー・トロイ」としてロンドンが建設されたという[39]。紀元前1200年前後のトロイ崩壊後、トロイ王族のアイネイアースはトロイの移民を率いてイタリアに移住、ラテンの王ラティヌスの娘と結婚。ブルートゥスはアイネイアースの孫である。
その次の都市は繁栄し、紀元100年にそれまでブリタニアの首都であったコルチェスターから取って代わった。2世紀のローマ支配のロンドンは6万人の人口があった。
最近の2つの発見により、ロンドンは考えられていたよりも古くから人が住んでいたことが分かった。1999年に青銅器時代の橋がヴォクスホール・ブリッジの北側の砂浜で発見されている[40]。この橋はテムズ川を渡っていたか、今はない川の中に浮かぶ島を渡っていた。樹木学では紀元前1500年にさかのぼる木材が使われている。2010年には紀元前4500年にさかのぼる大きな木材で築かれた建物がヴォクスホール・ブリッジ南側の砂浜で発見された[41]。中石器時代のもので機能は分かっていないが、50メートル×10メートルの範囲で30センチの干潮時に見ることができる。この2つの構造物は南岸のテムズ川とエッフラ川が自然に合流する地点にあり、ローマ時代のシティ・オブ・ロンドンの上流4キロの場所にある。これらの構造体を構築するのに必要な労働力、貿易、安定性などから少なくとも数百人規模のコミュニティがあったことを示している。
中世
5世紀初期にはローマは事実上、ロンドンを放棄している。6世紀からアングロ・サクソン人がルンデンヴィック(英語版)で知られる開拓地がローマ人の古い街のわずかに西に築かれ、これは現在のコヴェント・ガーデンやロンドンで、人口は1万人から1万2,000人程度に達した。ただし、宗教的な中心地はカンタベリーであり、この側面でだけはロンドンは後塵を拝することになる。フリート川の河口には漁業や交易で栄えた港があったと思われるが、ヴァイキングからの防衛上の見地から、かつてのローマ人の市街壁を用いるため、東のロンディニウムへの移動を強いられた[42]。ヴァイキングの襲撃は増加の一途をたどり、886年にアルフレッド大王がデーン人の指導者であるガスラム(英語版)とウェドモーアの和議を締結するまで続いた[43]。アングロ・サクソン人のルンデンヴィックLundenwicは「旧市街」を意味するエアルドヴィックEaldwicと改称され、現在のシティ・オブ・ウェストミンスターのオールドウィッチにその名を残している[44]。10世紀、すでに国内最大の都市となり、貿易面でももっとも重要な都市となっていたロンドンは、イングランド統一によりさらに政治面での重要性も高めた。さらにこのころ、ウェセックスの伝統的な中心地であるウィンチェスターとの競合にも直面した。
11世紀、エドワード懺悔王はウェストミンスター寺院を建設し、シティより少し上流の地であるウェストミンスターに居住した。この見地に立てば、ウェストミンスターはシティの政府機能を担う立場を着実に奪っていったといえる[45]。1066年、ヘイスティングズの戦いで勝利し、イングランドを征服したノルマンディ公ギヨーム2世は同年のクリスマスの日に、ウェストミンスター寺院でイングランド王ウィリアム1世として即位した[46]。ウィリアム1世はホワイト・タワー(のちのロンドン塔)をシティの南東に建設し、市民を威圧した[47]。1097年、ウィリアム2世はウェストミンスター寺院にほど近い場所に、ウェストミンスター宮殿の基礎となるウェストミンスター・ホールを建設した[48][49]。12世紀、それまで国中を移動していた宮廷に同伴していた中央政府の各機関は次第に一箇所に固定化し、規模を増大させ、洗練されていった。多くの場合、政府機関はウェストミンスターに集中したが、国庫の機能はロンドン塔に置かれた。ウェストミンスターが首都として政府機能を果たす一方、シティは自治機能を有するイングランド最大の商業都市に発展していた。シティはその経済力を背景として、12 -13世紀に市長を選出する権利や独自の法廷を持つ権利を獲得し、14世紀半ばからは市参事会を選出し、王権から独立した高度な自治都市としての独立を保持した。人口は1100年に1万8,000人、1300年までには10万人ほどにまで成長していた[50]。
14世紀半ばにはペストが発生し、人口は3分の1程度減少した。1381年、ワット・タイラーの乱が発生した[51]。
近世
テューダー朝の時代、宗教改革にともなうプロテスタントへの移行が次第に進むにつれ、教会の私有化が進んだ[52]。ネーデルラント周辺地域へは未加工のウール生地が海上輸出された。生地の主たる用途は、大陸ヨーロッパの富裕層向けの衣服であった。しかし、当時のイギリスの海運会社は北西ヨーロッパ以外の海にはほとんど進出しなかった。イタリアや地中海への商業ルートは、通常アントウェルペンまたはアルプス山脈経由であった。海上輸送ではイタリアやドゥブロヴニクの貿易商と同様、ジブラルタル海峡を経由した。1565年のオランダとイギリス間の貿易再開は、瞬く間に活発な商取引をもたらした[53]。1566年、王立取引所が設立された。重商主義は進展し、イギリス東インド会社をはじめとする勅許会社が設立され、貿易は新世界へと拡大した。ロンドン港は北海において重要性を増し、国内外から移住者が来航した。1530年の人口は推計で5万人、1605年には22万5,000人に上昇した。
16世紀、ウィリアム・シェイクスピアや同時代に生きたロンドンの劇作家は、イギリス・ルネサンス演劇をはじめとして劇場の発展にしのぎを削った。テューダー朝が終わりを告げる1603年まで、ロンドンはまだ非常に小規模な都市であった。1605年、ジェームズ1世の暗殺計画を企てた火薬陰謀事件が発生した[54]。17世紀初頭や1665 - 1666年にはペストが流行し[55]、10万人または人口の5分の1が死亡した[56]。1666年、シティのプディング・レーンにてロンドン大火が発生し、市内の家屋の約85パーセントが焼失した[57]。建築家ロバート・フック指揮のもと[58][59][60]、ロンドン再建に10年の歳月を要した。1708年、クリストファー・レンの最高傑作であるセント・ポール大聖堂が完成した。ハノーヴァー朝の時代には、メイフェアをはじめとする新市街が西部に形成され、テムズ川には新たな橋が架橋され、南岸の開発が促進された。東部では、ロンドン港がテムズ川下流のドックランズに向かって拡張された。
1762年、ジョージ3世はバッキンガム・ハウスを手中に収め、以後75年間にわたって同邸宅は拡張を続けた。18世紀、ロンドンの犯罪率は高く、1750年にはロンドン最初の専業の警察としてバウストリートランナーズ(英語版)[61]が設立された。総計で200件以上の犯罪に死刑判決が下され[62]、小規模な窃盗罪でも女性や子どもが絞首刑に処された[63]。ロンドンで生まれた子どもの74パーセント以上は5歳未満で死亡していた[64]。コーヒー・ハウスが意見を交わす社交場として流行したのにともない、リテラシーの向上やニュースを世間一般に広める印刷技術が向上し、フリート・ストリートは報道機関の中心地となっていた。
1777年のサミュエル・ジョンソンによる言葉を記す。「ロンドンに飽きた者は人生に飽きた者だ。ロンドンには人生が与えうるものすべてがあるから」[65]
近現代
1831年から1925年ごろ、ロンドンは世界最大の都市であった[66]。著しく高い人口密度によりコレラが大流行し[67]、1848年に1万4,000人が死亡、1866年には6,000人が死亡した。特に、1854年8月の大流行は『ブロード街の12日間』というノンフィクションにまとめられている。1855年に、首都建設委員会が設立される。渋滞が増加し、首都建設委員会はインフラ整備を監督した。世界初の公共鉄道ネットワークであるロンドン地下鉄が開通している。首都建設委員会は1889年にロンドン郡議会(英語版)になり、ロンドン最初の市全域を管轄する行政機構として機能した。第二次世界大戦時、ザ・ブリッツをはじめとするドイツ空軍による空爆により、3万人のロンドン市民が死亡し、市内の多くの建築物が破壊された。終戦直後の1948年、ロンドンオリンピックが初代ウェンブリー・スタジアムにて開催され、同時に戦後復興をわずかに果たした。
1951年、フェスティバル・オブ・ブリテン(英語版)がサウス・バンクにて開催された。1952年に発生したロンドンスモッグの対応策として、1956年に大気浄化法 (1956)(英語版)が制定され、「霧の都」と揶揄されたロンドンは過去のものとなったが、大気汚染の問題はいまだに残されている[68]。1940年代以降、ロンドンには大量の移住者が流入した。多くはイギリス連邦加盟国の出身者である。内訳としてはジャマイカ、インド、バングラデシュおよびパキスタン出身者で、ロンドンに欧州屈指の多様性をもたらす要因となっている。
主として1960年代半ば以降、ロンドンは世界的なユースカルチャーの中心地となっていった。キングス・ロード、チェルシー、カーナービーストリート(英語版)といった地域ではスウィングロンドン(英語版)といったスタイルが流行した。流行の発信拠点としての役割はパンク・ロックの時代に復活し、1965年、ロンドンの都市的地域の拡大にともない、管轄範囲を拡大したグレーター・ロンドン・カウンシルが設立された。北アイルランド問題に関連し、ロンドンではIRA暫定派による爆破事件が発生した。1981年のブリクストン暴動(英語版)では、人種差別問題が注目を集めた。第二次世界大戦以後、グレーター・ロンドンの人口は次第に減少していった。ピーク時の1939年の推計人口が861万5,245人だったのに対し、1980年代では約680万人に減少していた。ドックランズのカナリー・ワーフ再開発事業にともない、ロンドンの主要港は下流に位置するフェリクストウ港(英語版)やティンバリー港(英語版)に移転した。また、カナリー・ワーフ再開発事業により、ロンドンの国際的な金融センターとしての役割は増加の一途をたどった。
1980年代、高潮による北海からの海水の流入をせき止め、洪水を防止するテムズバリア(英語版)が完成した。1986年、グレーター・ロンドン・カウンシルが廃止され、ロンドンは世界で唯一、中央行政機関が存在しない大都市となった。2000年、グレーター・ロンドンを管轄するグレーター・ロンドン・オーソリティーが設立された。ミレニアム記念事業の一環として、ミレニアム・ドーム、ロンドン・アイ、ミレニアム・ブリッジが建設された。2005年、ロンドン同時爆破事件が発生し地下鉄車両とバスが爆破された[69]。2012年、第30回オリンピックが開催された。1908年や1948年に次ぐ3度目のオリンピック開催であり、同一都市としては史上最多となる。
アメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界1位の都市と評価された[70]。
2020年、フランスのエマニュエル・マクロン大統領より、レジオンドヌール勲章を授与される[71]。
グレーター・ロンドンは、シティ・オブ・ウェストミンスターを含む32の特別区とシティ・オブ・ロンドンにより構成されている[72]。グレーター・ロンドンは選挙で選出されたロンドン市長とロンドン議会により構成されている。ロンドン市長は行政上の力を有し、ロンドン議会は市長が提案する年度毎の予算の可否や裁定に関して精細に調査する。グレーター・ロンドンの本庁はサザークのシティーホールにあり、現在の市長はサディク・カーンである。市長の法定戦略計画はロンドンプラン(英語版)として公開され、最新のものは2011年に改訂されている[73]。
グレーター・ロンドンのうち、シティ、都心部の13区はインナー・ロンドン、その外縁部の19区はアウター・ロンドンと呼ぶ。1965年、グレーター・ロンドン全体を管轄する広域自治体としてグレーター・ロンドン・カウンシルが発足したが、1986年にサッチャー政権の地方行政改革により廃止された。グレーター・ロンドン・カウンシル廃止以後、各区は「ユニタリー」と呼ばれる状態にあり、カウンティレベルの行政組織として機能していた。ところがブレア政権下の住民投票により、2000年にグレーター・ロンドンを管轄するグレーター・ロンドン・オーソリティーが設立され、グレーター・ロンドンの市長は直接選挙で選出されるようになった。初代市長ケン・リヴィングストンはロンドンの主要な政策課題である公共の安全性の確保と交通問題に努めたが、2008年にボリス・ジョンソンとの選挙に敗れ、ジョンソンが2代目市長となった。シティは中世から自治組織を有し、ロード・メイヤーと呼ばれるロンドン市長を選出してきたが、現在ではシティの「市長」は名誉職になっている。また、英国では伝統的に大聖堂(大寺院)がある町(Town)を都市(City)と呼称し、シティ・オブ・ロンドンにはセント・ポール大聖堂、シティ・オブ・ウェストミンスターにはウェストミンスター寺院がそれぞれ存在する。一方、サザークは大聖堂を有するが、16世紀からシティではなく特別区を名乗る。
特別区は一番身近な行政サービスである地区計画や学校、社会福祉援助、地域道路の整備、ゴミ収集に関して責任がある。ゴミ収集のような行政サービスはロンドン清掃事務当局(英語版)等の機関を通じていくつかの特別区ごとにそれぞれ共同で行っている。2009 - 2010年のロンドン議会とグレーター・ロンドンを合わせた歳入歳出規模は220億ポンドで、そのうち147億ポンドは特別区、74億ポンドはグレーター・ロンドンであった[74]。
グレーター・ロンドンの治安はロンドン市長公安室(英語版)下のロンドン警視庁により担われている。シティ・オブ・ロンドンは自らの警察機構であるロンドン市警察を有している[75]。イギリス鉄道警察はロンドンのナショナル・レールやロンドン地下鉄に関してその責任を有している[76]。
ロンドン消防庁はイギリスの消防に関する法律により、ロンドン消防・緊急事態計画局(英語版)のもと、グレーター・ロンドンを管轄する、世界で5番目に大きな消防組織である[77]。救急はロンドン救急サービス(英語版)(LAS)により担われ、無料の救急車サービスでは世界で最大規模である[78]。ロンドン航空救急(英語版)はLASと連携して慈善で運営されている。イギリス沿岸警備隊と王立救命艇協会はテムズ川で運用されている[79][80]。
政府機関
ロンドンはイギリス政府の首都としてウェストミンスター宮殿周辺に官庁が多く集まっている。特にホワイトホール沿い界隈に集中しており、首相官邸のダウニング街10番地も含まれる[81]。イギリス議会は「議会の母(Mother of Parliaments)」と呼ばれ、この愛称は最初にイングランド自体にジョン・ブライトが用いた[82]。議院内閣制のモデルである。
範囲
グレーター・ロンドンは一番上の行政機構で、特別区がそれぞれロンドンをカバーしている。小さい範囲のシティ・オブ・ロンドンはかつてすべての範囲の街区が含まれていたが、都市地域の成長によりシティ・オブ・ロンドン自治体(英語版)により郊外との合体が試みられた。それぞれ異なった目的により「ロンドン」が定義され、かつて法的に議論された[83]。グレーター・ロンドンの40パーセントはロンドン郵便カウンティ(英語版)によりカバーされ、郵便の住所では 'LONDON'の範囲を構成している[84][85]。
ロンドンの市外局番は(020)でグレーター・ロンドンと同じように広範囲をカバーし、外側の地区のいくつかは外れるがグレーター・ロンドンの外の地区のいくつかは含まれている。M25モーターウェイの内側が通常、ロンドンとみなされ[86]、グレーター・ロンドンの範囲は変化している (en) [87]。市街地の拡張は現在、メトロポリタン・グリーンベルト(英語版)により防がれているが[88]境界を越えて市街地は広がっており、グレーター・ロンドン都市的地域と定義が分かれる。超えた範囲は広大なロンドンコミューターベルト(英語版)になっている。
グレーター・ロンドンはいくつかの目的によってインナー・ロンドンとアウター・ロンドンに分かれている[89]。シティはテムズ川によりノース・ロンドンとサウス・ロンドンに分けられ、形式的にセントラル・ロンドンはその内側にある。ロンドンの中心はもともとチャリングクロスのエレノア・クロス(英語版)でウィンチェスターとトラファルガー広場の結合する部分の近くに位置し、北緯51度30分26秒 西経00度07分39秒である[90]。
都市の地位
シティ・オブ・ロンドンとシティ・オブ・ウェストミンスターはシティステータスを有し、シティ・オブ・ロンドンはグレーター・ロンドンとは別個の典礼カウンティとして残っている[91]。現在のグレーター・ロンドンには、かつてのミドルセックス州、ケント、サリー、エセックス、ハートフォードシャーが編入されている。
ロンドンの、イングランドやのちのイギリスの首都としての地位は法律や書物には認められない[注釈 1]。しかしその地位は、憲法会議を通してイギリスの憲法で実質的な首都として制定されている。12世紀と13世紀にかけて、イングランドの首都は、ウェストミンスター宮殿の開発の進展によりウィンチェスターからロンドンへ王宮が恒久的に移されてから、国家の政治の中心たる首都となった[94]。
地勢
グレーター・ロンドンは1,583平方キロメートル (611 sq mi) の面積があり、人口は2001年現在7,172,036人で人口密度は4542人/km2。より広い範囲はロンドン都市圏またはロンドン大都市圏密集体と呼ばれ面積は 8,382平方キロメートル (3,236 sq mi) で人口は12,653,500人に達し人口密度は1510人/km2である[95]。現代のロンドンはテムズ川河畔に位置する。テムズ川の特徴として、航行可能で、ロンドン市域を南西部から東部にかけ横切っている。テムズ低地(英語版)は氾濫原で周辺部はなだらかな丘陵地である。その中にはパーラメント・ヒル(英語版)やアディントン・ヒル(英語版)、プリムロズ・ヒルが含まれる。テムズ川はかつてはより川幅が広く、水深も浅くて沼地が広がり、満潮時には河岸は通常の5倍にも達していた[96]。南西部のヒースロー空港近辺のテムズ川本流付近の貯水池群と砂利採取場跡はオカヨシガモとハシビロガモの生息地で、2000年にラムサール条約登録地となった[97]。
ヴィクトリア朝以来、テムズ川は広い堤防が築かれ多くのロンドンの支流は現在地下を流れている。テムズ川は潮の流れの影響を受ける川で洪水による被害を受けやすい[98]。この脅威は時間と共にゆっくりと継続的に高い潮汐レベルで増す。これは緩やかに傾いたイギリスの後氷期地殻均衡復元(英語版)による[99]。1974年に脅威を防ぐため10年計画でウーリッジでテムズ川を横切るテムズバリア(英語版)の建設が始まった。バリアは2070年まで機能するように設計され、さらなる拡張や再設計の話し合いがすでに行われている[100]。
気候
典型的な西岸海洋性気候で、イギリス南部の多くの地域と同様である。日本と比べると暖候期である春から夏の気温が低いため、相対的に秋から冬にかけての季節が長く感じられるが、年間を通してみると温和な気候である。冬は比較的寒いが、1月の気温を平均すると約6℃で日本の東京や大阪とほぼ同じで緯度の割に寒くない。しかし、日々の変動が大きく、最低気温が8~9℃となる日もあれば最高気温が1~2℃となることも珍しくない。また冬の日照時間は短く曇りの日が続く。霜が郊外で11月から3月にかけ平均2週間発生する。降雪は通常、4-5回12月から2月にかけ発生し、大雪となっても10cm程度である。3月や4月に雪が降ることは希であるが、2-3年毎に見られる。冬の気温は−4 °C (24.8 °F) 以下や14 °C (57.2 °F) 以上を超えることは滅多に起こらない。比較的近い北極や北欧方面からの寒波の影響を受けることがあり2010年の冬には郊外のノーソルトで−14 °C (6.8 °F)の最低気温を記録し、20年に一度の大雪も見られロンドンの交通機関は大きく混乱した。 夏は日本の夏より気温が低く、盛夏でも夜には15℃を下回りコートが必要になることがある。時折暑くなることもあるが、30℃以上となることは少ない。ヒートアイランドによりロンドンの中心部では気温が郊外に比べ5 °C (9 °F) も高い。ロンドンの夏の平均気温は 24 °C (75.2 °F) で、年に7日は 30 °C (86.0 °F) を超え2日は32 °C (89.6 °F) を超える。気温が26℃(80 °F)を超えることは6月半ばから8月後半にかけて見られる。大陸からの熱波の影響を受けることがあり、2003年の欧州の猛暑では14日間連続で気温が 30 °C (86.0 °F) を超え、2日連続で 38 °C (100.4 °F) を超えた。数百人が猛暑に関連し死亡している。雨は夏の期間、2日から10日の範囲で見られる。春や秋は季節が混在するため、5-6月や9-10月にも防寒対策が必要となることもある。2011年10月1日に気温が 30 °C (86.0 °F) に達し、2011年4月には28 °C (82.4 °F) に達した。しかしながら、近年ではこの最高気温を記録した月に雪が降ることもある。ロンドンの気温の幅は-11.0℃から37.9℃である。
雨が多い都市という評判がロンドンにあるが、実際にはロンドンの降水量はローマの 834 mm (32.8 in) やボルドーの923 mm (36.3 in) より少ない[101]。降水量自体は少なくとも、降水日数が多いため雨が多いと感じるのである。
また、「霧の都」と呼ばれるように[要出典]年間の霧発生日数が多い。
ロンドン(1991~2020)の気候 | |||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
最高気温記録 °C (°F) | 15.4 (59.7) |
20.1 (68.2) |
22.8 (73) |
28.5 (83.3) |
31.7 (89.1) |
34.0 (93.2) |
37.9 (100.2) |
37.9 (100.2) |
32.8 (91) |
28.8 (83.8) |
18.5 (65.3) |
16.4 (61.5) |
37.9 (100.2) |
平均最高気温 °C (°F) | 8.4 (47.1) |
9.1 (48.4) |
12.1 (53.8) |
15.5 (59.9) |
18.8 (65.8) |
22.1 (71.8) |
24.4 (75.9) |
24.0 (75.2) |
20.6 (69.1) |
16.1 (61) |
11.5 (52.7) |
8.7 (47.7) |
15.9 (60.6) |
日平均気温 °C (°F) | 5.7 (42.3) |
5.9 (42.6) |
8.0 (46.4) |
10.5 (50.9) |
13.7 (56.7) |
16.8 (62.2) |
19.0 (66.2) |
18.7 (65.7) |
15.9 (60.6) |
12.4 (54.3) |
8.5 (47.3) |
6.1 (43) |
11.8 (53.2) |
平均最低気温 °C (°F) | 3.2 (37.8) |
3.2 (37.8) |
4.7 (40.5) |
6.5 (43.7) |
9.4 (48.9) |
12.4 (54.3) |
14.5 (58.1) |
14.5 (58.1) |
12.0 (53.6) |
9.3 (48.7) |
5.8 (42.4) |
3.6 (38.5) |
8.3 (46.9) |
最低気温記録 °C (°F) | −10.0 (14) |
−9.0 (15.8) |
−5.1 (22.8) |
−2.0 (28.4) |
−1.0 (30.2) |
4.0 (39.2) |
5.6 (42.1) |
5.9 (42.6) |
1.7 (35.1) |
−3.3 (26.1) |
−7.0 (19.4) |
−11.0 (12.2) |
−11 (12.2) |
降水量 mm (inch) | 57.8 (2.276) |
43.4 (1.709) |
38.3 (1.508) |
42.0 (1.654) |
45.5 (1.791) |
43.4 (1.709) |
45.3 (1.783) |
52.1 (2.051) |
48.3 (1.902) |
61.5 (2.421) |
64.4 (2.535) |
54.7 (2.154) |
596.7 (23.493) |
[要出典] |
地区(2市31区)
ロンドンは広大な市街地が広がっていることから、よくブルームズベリーやメイフェア、ホワイトチャペルのように地区名が使われている。これらはいずれも、非公式な名称で都市の広がりによって吸収された村を映したものや教区、グレーター・ロンドン以前の旧区を表したものである。これらの名称は今でも残って使われており、それぞれの地域を表したり自らの地区を特徴付けているが現在は公式には使われていない。1965年以来、ロンドンは32の自治区に分けられ、これに古くからのシティ・オブ・ロンドンが加わる[102][103]。シティ・オブ・ロンドンはロンドンの金融の中心で[104]、カナリー・ワーフは近年では再開発が進み新たな金融や商業の中枢になっている。東側はドックランズである。ウェスト・エンドはロンドンのエンターテイメントやショッピングの中心地区で観光客を惹き付けている[105]。ウェスト・ロンドン(英語版)は高級住宅地を含む地区で不動産価格は1000万ポンドにもなる[106]。ケンジントン・アンド・チェルシーの不動産の平均価格は89万4,000ポンドでセントラル・ロンドンのほとんどは同様である[107]。
イーストエンド・オブ・ロンドンは元のロンドン港(英語版)に近く、高い移民人口で知られロンドンでも最も貧しい地区の一つである[108]。北東部(英語版)はロンドンでは初期に工業開発が行われた地域で現在ではブラウンフィールド(汚染地区)の一部として再開発が行われているテムズゲートウェイ(英語版)にはロンドンリバーサイド(英語版)やローワーリーバレー(英語版)も含まれ、これは2012年のオリンピックとパラリンピックのためのオリンピックパークを含んでいる[108]。
建物
ロンドンの建築物は様々な年代のものがあり多様である。多くの大きな建物やナショナル・ギャラリーのような公共の建物はポートランド石という白い大理石で造られている。市街地の一部とくに西部や中心部では化粧しっくい(スタッコ)や水しっくいで特徴付けられた建物を見ることが出来る。セントラル・ロンドンでは1666年に起こったロンドン大火以前の建物が若干見られ、古代ローマの跡も僅かに残されている。ロンドン塔やシティに点在したわずかなチューダー様式の建物が残っている。さらにチューダー期(英語版)のイングランドで残っている一番古いチューダー宮殿、ハンプトン・コート宮殿はトマス・ウルジー枢機卿により1515年に建てられた[109]。
クリストファー・レンの17世紀後半の教会や金融機関の建物、18世紀や19世紀の王立取引所やイングランド銀行、20世紀初期のオールド・ベイリー(英語版)、1960年代のバービカンエステート(英語版)は建築遺産の一部を形成している。1939年に建設されたバタシー発電所はテムズ川の南西側に位置し今では使われていないが、地元のランドマークになり再開発も計画されている。鉄道のターミナル駅ではヴィクトリア建築(ネオ・ゴシック様式)の代表例としてセント・パンクラス駅とパディントン駅が上げられる[110]。ロンドンは地域により建物の密集状態が異なり、セントラル・ロンドンは高い就業人口集積がありインナー・ロンドンは高い住宅密度である。アウター・ロンドンは低い密度になっている。 シティにあるロンドン大火記念塔はロンドン大火を記念し現場の近くに建てられている。マーブル・アーチとウェリントンアーチ(英語版)はシティ・オブ・ウエストミンスターのパーク・レーン(英語版)の北側と南側にそれぞれある。また、アルバート記念碑とサウス・ケンジントン(英語版)のロイヤル・アルバート・ホールは王室とのつながりがある。ネルソン記念柱はホレーショ・ネルソン提督の業績を記念し、トラファルガー広場に据えられロンドン中心の焦点なる場所の一つである。古い建物は主に煉瓦で建てられ、ほとんどは黄色っぽいロンドンストック煉瓦(英語版)か明るいオレンジや赤系統のもので、彫刻やプラスターの繰形が施される[111]。
密集地帯のほとんどでは中層や高層のビルが建てられる。ロンドンの高層ビルには30セント・メリー・アクス、タワー42、ブロードゲートタワー(英語版)、ワン・カナダ・スクウェアがあるがこれらはシティ・オブ・ロンドンやカナリーワーフの二つの金融街などで見ることが出来る。高層ビルの建築はセント・ポール大聖堂や他の歴史的な建築物など歴史的な建物の景観を保護するため、特定の場所に制限されている。それでもやはり、多くの超高層ビルがロンドン中心部では見ることができ、イギリスでは一番高い高層ビルであるザ・シャード (310m) も含まれる。他にロンドンを特徴付ける建物には大英図書館や2002年に完成したサザークのシティ・ホールで楕円形の建物は目に付く[112]。以前のミレニアム・ドームは現在は改名され複合娯楽施設The O2として使われている。
公園・庭園
中心部で一番大きな公園はロンドンの王立公園(英語版)のうちの一つであるハイドパークで、近隣にはセントラル・ロンドンの西側にケンジントン・ガーデンズが、北側にリージェンツ・パークがある[113]。リージェント・パークには、世界で一番古い科学的な動物園であるロンドン動物園があり、近くには観光名所である蝋人形館のマダム・タッソー館がある[114][115]。ロンドン中心近くには小さな王立公園であるグリーンパーク(英語版)とセント・ジェームズ・パークがある[116]。ハイド・パークは特にロンドンのスポーツのスポットとして有名で、しばしば野外コンサートが行われる。中心部の外へ出ると多くの大きな公園があり、その中には南東部の王立公園のグリニッジパーク[117]や、南西部のブッシーパーク(英語版)やリッチモンドパーク[118][119]、東側のヴィクトリア・パーク(英語版)がある。プリムローズヒルは市街地の北側にあり、リージェントパークからのロンドン中心部のスカイラインの眺めはポピュラーである。いくつかの非公式な、自然なオープンスペースに準じた空間があり、ノース・ロンドンのハムステッド・ヒース(320ヘクタール)も含まれる[120]。ハムステッド・ヒースにあるケンウッド・ハウスは元は邸宅で、夏の期間はクラシック音楽のコンサートが行われるポピュラーな場所で、週末には数多くの人が音楽や景色、花火を楽しんでいる[121]。