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九一式重戦車(きゅういちしきじゅうせんしゃ)または試製九一式重戦車(しせいきゅういちしきじゅうせんしゃ)とは、大日本帝国陸軍が1931年(昭和6年)(皇紀2591年=旧軍の兵器は昭和以降皇紀の下2桁で呼称する)に開発した重戦車。資料によっては、本車を試製二号戦車としているものもある。
本車は初めての国産戦車である試製一号戦車(の改修型)を改良した物である。試製一号戦車は1927年(昭和2年)に開発され、富士演習場で軍関係者や一般市民の前で行われたデモンストレーションでもおおむね好評であったが、唯一の欠点は重量が当初予定していた値より2t重い18tとなり、最高速度が20km/hに低下したことだった。
当時、陸軍の仮想敵はソ連であり、想定していた主戦場は不整地が多く、軟弱な地盤の中国大陸だった。ゆえに試製一号戦車の採用は見送られ、代わりに八九式軽戦車が採用された。
ただし、敵に対し優位に立つために重戦車も必要と考えた陸軍が、1928年(昭和3年)3月28日に開発を決定したのが本車である。実際に完成したのは1932年(昭和7年)3月である。
ちなみに、本車の全高は八九式中戦車とほぼ同じである。
重量は試製一号戦車と同じく18t、ただしエンジン出力が増大したため、最高速度は25km/hに向上している。主砲口径も、初期には九〇式57 mm戦車砲で、後に18.2口径70 mm戦車砲(型式不明)に換装し、攻撃力が向上している。
また、機関銃は試製一号戦車同様、車体前部と後部に設けた小銃塔に1挺ずつ、および砲塔後部にかんざし式に1挺と合計3挺装備している。
乗員配置は、車体前部右側に操縦手、車体前部左側の旋回砲塔に機銃手、主砲塔に右側の車長と左側の砲手、車体後部の旋回砲塔に機銃手の、計5名である。装填手については、弾薬筒重量からして、57 mm砲であれば砲手が、70 mm砲であれば車長が、兼任したと考えられる。乗員は車内に張り巡らされた伝声管を通じてやり取りをした。
(上)武装配置がよくわかる。
(上)九一式重戦車透視図。車長席から車内各所に伝声管が張り巡らされているのがわかる。
本車は起動輪(スプロケットホイール)が車体後方にある後輪駆動方式である。車体前方の誘導輪(アイドラーホイール)にも履帯外れ防止用の歯(スプロケット)がある。また、車体前方にテンションアジャスターがあり、誘導輪の位置を前後に微調整することで、履帯のテンションを調整することができた。消音器(マフラー)は、機関室の右側面に1つ配置されている。
試作車輌なので、車体は軟鋼製であった可能性がある(一般に試作車輌は、実戦用ではないので耐弾性能が必要無いことと、製造・修正・改造しやすいよう、軟鋼で作られる)。
本車の生産数は1輌と少ない。4年後の1935年(昭和10年)には本車の改良型として九五式重戦車が作られたが、こちらも4輌しか作られていない。
1945年(昭和20年)9月頃に相模造兵廠で撮影された試製九一式重戦車の写真が残されているので、この頃まで本車が存在していたことは確実である。その写真の試製九一式重戦車は全武装を撤去されている。
(上)1945年(昭和20年)9月頃、相模造兵廠にて。
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