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日本の東京都港区にある暴力団 ウィキペディアから
住吉会(すみよしかい)は、東京都新宿区新宿に総本部を置く博徒系指定暴力団。
勢力範囲は1都1道1府14県、構成員は2,200人で準構成員等を含めると約3,500人(2023年末時点)。六代目山口組、神戸山口組、絆會、池田組、稲川会とともに公安委員会から主要団体等として位置づけられている[1]。
幕末から明治初期、「住吉町の旦那」と呼ばれた伊東松五郎(弘化3年1月28日 - 大正9年10月25日、伊東与兵衛の子)が五十嵐徳次郎の跡目を継ぎ、東京芝浦一帯で結成した博徒「住吉一家」を前身としている。一家の名称は伊東松五郎が東京日本橋住吉町出身(現在の人形町)であることからつけられた[3][4]。
その後、横浜の沖仲仕であった倉持直吉が1918年(大正7年)頃に東京都内を本拠地として「住吉一家二代目」を結成。これを直接の起源とする。以後「港会」「住吉会」「住吉連合」「住吉連合会」と順次改称、1991年(平成3年)に再び「住吉会」へと名を変えた[PR 1]。
1958年(昭和33年)住吉一家三代目総長・阿部重作が住吉一家を中心として、関東の博徒・的屋・愚連隊28団体の連合を幸平一家の稲毛十蔵に依頼し「港会」(みなとかい)を結成。その会長には幸平一家十代目総長・青田富太郎を据えた[5]。
1962年(昭和37年)阿部重作が引退。磧上義光が住吉一家四代目を継承し港会会長に就いた。その後、磧上義光は、港会を「住吉会」と改称した。
1963年(昭和38年)12月、住吉会は、松葉会、錦政会、日本国粋会、義人党、東声会、北星会と共に、児玉誉士夫の提唱する関東会に参加。
1964年(昭和39年)3月、警察庁が住吉会を広域10大暴力団に指定。他に対象となったのは山口組、本多会、柳川組、錦政会、松葉会、日本国粋会、東声会、日本義人党、北星会であった。同年6月には、関東会定例総会において、住吉会会長・磧上義光が関東会の二代目理事長に就任。警察の第一次頂上作戦により磧上義光が逮捕されたことから、翌年の解散につながった。広域暴力団に指定された10団体のうち最初のトップの逮捕であった。1965年(昭和40年)1月、関東会は解散し、同年5月に住吉会は解散した。
1967年(昭和42年)、堀政夫が住吉一家五代目を継承すると共に、解散した住吉会を引寄せ「住吉連合」を結成し代表に就任。
1972年(昭和47年)には、稲川会、國粹会、東亜会、交和会、義人党、松葉会、二率会、双愛会とともに、博徒系暴力団の親睦団体・関東二十日会を結成。
1982年(昭和57年)、堀政夫が組織を刷新し、組織名を「住吉連合会」に改め会長に就任。この時期には極東会を相手取ったいわゆる“池袋抗争”が発生し、その過程で傘下幸平一家系の組員が警察官を誤射したことから社会的な非難を集める[6]。さらにそこから九州の道仁会との抗争が突発的に発生し、首都圏に置く拠点の大半を同会に急襲されかけるという危機に見舞われるも、まさに間一髪というところで平和的な解決が実現するに至っている(いわゆる“池田会事件”)。
1988年(昭和63年)、堀政夫が住吉連合会日野一家四代目・川口喨史に住吉連合会会長を譲り、自身は総裁に就いた。
1991年(平成3年)2月、 住吉連合会向後二代目・西口茂男が住吉連合会会長に就任した後に住吉一家六代目を継承。同年のうちに西口茂男が住吉連合会の各一家親分との親子血縁盃を行い、組織名を「住吉会」と改称した。
1992年(平成4年)、暴力団対策法が施行され住吉会は山口組や稲川会ともに指定第1号となった。
1998年(平成10年)6月、西口茂男は住吉一家六代目総長のまま、住吉会理事長で住吉一家小林会二代目会長の 福田晴瞭に住吉会会長を継承させた。
2002年(平成14年) 1月、西口茂男が住吉会総裁に就任。
2005年(平成17年)4月、福田晴瞭は西口茂男の指名により住吉一家七代目を継承した。これに際し盃直しは行われなかった。またこれまで傘下のほとんどの団体の名称は「住吉会○○一家」であったが「住吉会住吉一家○○」と改めた(幸平一家などの一部の団体はこれまで通り一家を冠した)[7]。
2012年(平成24年)9月27日、米財務省は住吉会(Sumiyoshi-kai)を国外の著しい犯罪組織とその支持者であるとして、国際緊急経済権限法・大統領令13581号に基づき、米国司法権の及ぶ範囲の資産凍結、米国民との取引禁止させる制裁対象とした[PR 2]。
2014年(平成26年)4月、福田晴瞭が会長職を退き、住吉会会長代行で住吉一家共和六代目・関功が会長に就いた。また、これまで一部を除いた傘下組織の名称を「住吉一家○○」としてきたが、住吉一家を外し旧来の家名とすることが決定された[7]。2015年3月および10月に直系組織の代目承継を実施した[PR 3]。 加えて、関功から63名が舎弟、22名が子の盃を受けている[8]。
2017年(平成29年)9月、西口茂男が死去した[9]。
2021年(令和3年)4月、関功が会長を退いて代表に就任[10]。後任の会長には小川修司が就任[11]。
2022年(令和4年)5月31日に代表である関功が死去したことが判明した[12]。
2023年9月、会長の小川修司を兄・親とする盃式が開催された[1]。 また同年11月、東京都公安委員会より、東京都港区の事務所に代わって東京都新宿区所在の施設が主たる事務所である旨が公示された[13]。 この事務所については、近隣住民らが暴力団追放運動推進都民センターを通じて使用差し止めを求める仮処分申請が行なわれ、2024年7月18日、東京地方裁判所はこれを認めたことから、再移転を余儀なくされた[14]。
住吉会は六代目山口組との組織ぐるみの縁を持たない唯一の本州の団体で[注 1]、六代目山口組とは数々の抗争事件を引き起こしてきたが、司忍組長が出所した2011年には山口組と和解し組織間での接触が始まったとみられる[PR 5]。
六代目山口組から神戸山口組が分裂した後の2015年9月に住吉会会長の関功をはじめとする最高幹部ら十数人らが山口組総本部を訪問、司忍と会談している[15]。住吉会は山口組が友好関係を結んでいる「親戚団体」とは異なり、これまで山口組とは一定の距離を置いていると見られていたため、こうした幹部らの集団訪問は異例となる。
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